HISTORY
HISTORY

世界中の波の上で、サーファーたちの
最高のパートナーとなるウエットスーツ

DOVEは1975年の創立以来、サーフィンをスポーツやコンペテションというようなただ単にカテゴライズできるものではなく、生まれてある悦びの最上のひとつと考え、その全人格をサーフィンに注ぎ込んで歩んできました。

PROLOGUE

ケヌイロード 59-343 番地

マスターズを観戦するチームクルー
Photo/Kondo

今はエフカイビーチパークの一部となってしまった幻の番地に、かつてダブハウスと呼ばれた赤い屋根の白い大きなビーチフロントハウスが建っていた。

1980 年代始めから終わりまでの間、世界最高峰の波に挑む日本のサーファーにとって最前線の基地であった。
その庭先の目の前は、世界最高のレフトの波ーパイプラインがブレイクしている最高のロケーション。

ローカルを始め世界中から集まるトッププロに混じってサーフできた背景には、陰で戸倉自身が、デーンケアロハやキニマカ兄弟、ジョニーボーイと言ったとハワイの重鎮らとコミニュケーションをとっていたからだ。

そして、日本中から集まった強者達が互いに刺激し合い、多い時には20人以上のサーファーが滞在し切磋琢磨した。
その介あって、添田博道が 78 年のプロクラストライアル7位の入賞から始まり、今須伸政がパイプマスターズのチャージで伝説を残し、同時に久我孝男が10位入賞を果たして、エディーアイカウメモリアルのインビテーションカードを手に入れた。

2002 年パイプマスターズのロコトライアルでは、脇田貴之がパーフェクト 10 を出す偉業を成し遂げ、パイプ奥のポジションにワキタピークと名付けられ誰もが称する様になる。更に、日本人2人目となるエディーアイカウメモリアルのインビテーションカードを手に入れ、2014-15 年も2度目のインビテーションカードを手にする活躍がある。

まだ携帯もネットも無かった時代から日本人サーファー達にとってどれほど心強かったか、これら数々の伝説を作り上げてこれた背景には、このダブハウスが築き上げたといっても過言ではない。

今は跡形も無くなってしまったダブハウスだが、このノースショア伝説は永遠に語り継がれることであるだろう。
次の世代達がこれからもっと活躍する事を願いながら・・・

INTRODUCTION

モダンサーフィンの夜明け

モダンサーフィンが日本に伝わってきたのは 1960 年代の初めのことだった。
そして ’70 年代を迎える頃には、湘南や千葉に幾つかのサーフボード・メーカーが生まれ、やがて日本の各地にも確立されていった。
それでもまだ、サーフィン専門といえるウェットスーツ・メーカーは存在せず、サーファーは、海外から輸入されたものか、ダイビングスーツ・メーカーが、3ミリの生地で製作したもので我慢するしかなかった。
素材自体も今日とは次元が違うほど劣っていたが、それでも裁断や縫製など、改良の余地はあった。バリエーションも、わずかにタッパ、ビーバーテール、ロングジョン、ショートジョンといった程度でしかなく、寒さを凌ぐには、重ね着をするしかない時代だった。

あの頃の多くのサーファーにとって夏以外の季節は、今から思えば混雑と無縁な至福の季節だったといえるかもしれないが、寒さと動きにくさに耐えなければならない受難の季節だったのである。
’74 年から ’75 年にかけての冬のハワイ。’60 年代にサーフィンと出逢い、その虜になっていたひとりの男がいた。ホームグラウンドの湘南を中心にして、海部をはじめ日本の素晴らしい波を求めた旅をし、各地のサーファーとも交流を深めていた彼だったが、25 歳という年齢を迎えて、サーファーとしての自分の生き方も、ひとつの節目を迎えていると感じていた。

DOVEの誕生

仲間と一緒に、サーフィンで暮らしをしていきたかった。けれど、それまで自分の力になってくれた先輩達と衝突するようなことはしたくない」
あの頃、サーフィンで暮らすといえば、サーフボードファクトリーかサーフショップを始めること。しかし、それもなんとかやっていけるようになったばかりだった。彼はそれまで親交を結んできたサーファー達と、どこかで対峙することになりかねないような仕事を始めたくはなかった。だが彼は、サーフィンで暮らしていきたいのだ。

そして彼、戸倉康守は、サーファーである自分達が欲しい機能とデザインを追求する、サーフィンのためだけのウェットスーツ・ファクトリーをやってみようと思い立ったのだ。帰国した彼は、ダブ・サーフィング・ウェットスーツを設立。

そのネーミングの由来は、24フィートのヨット、ダブ号で世界一周単独航海に船出した少年が、5 年の歳月をかけて 5 万 6千海里の冒険航海を達成するまでの実話をもとにした映画『DOVE/ダブ』からだった。
ダブ号のように、自分達の作るウェットスーツが、世界中の波の上で、サーファーにとって最高のパートナーとなれるよう、そんな思いの込められたネーミングだったのだ。

40年の歳月をこえて

そうして 1975 年に産ぶ声を上げた、ダブ・サーフィン・ウェットスーツ。
創立以来、サーフィンを、ただ単にスポーツだとかコンペテションというようにカテゴライズできるものではなく、生まれてある悦びの最上のひとつと考えてきたダブは、その全人格をサーフィンに注ぎ込んで歩んできたつもりである。

それから 40 年。
人間は、自分達の手が加えられた環境や、人間を甘やかすような環境にばかり浸っていると、世界全体が人間のために用意されているのだという錯覚に陥る。
人間は地球のほんの隅っこを借りて住んでいるにすぎないのに、まるで主であるかのように振る舞う。
その結果のひとつが、今の日本の海岸線だ。
それを痛みと感じられるサーファーであっても、そんな錯覚とまでいかないものの、時に勘違いもあっただろう。
ダブが 40 年の歳月を越えてやってこれたのも、すべて波という地球の恵みあってこそ。地球上の海のほんの隅っこに、寄せ来る波という悦びの世界があったからなのだ。波と出逢うということの大前提が、人間の意志を遥かに越えた自然の領域に属していることを、時として忘れてはいないだろうか。
40 年の間に私達がサーフィンしてきた数え切れないほどの素晴らしい波の総てに於いて、我々が波を当てたのではなく、私達は恵まれたのだということを。

そして、ダブが最高のサーフィング・ウェットスーツ・メーカーとしてあるのもまた、そんな私達のポリシーを理解し、評価してくれるサーファー達がいたからだということも、私達は忘れない。ダブの仕事には、素晴らしいサーファーというパートナーの存在がなくてはならないからだ。そんな素晴らしいサーファーと共に未来へと、私達も歩んでいきたい・・・

OUR HISTORY 1975-2017

1975

ダブ創設

神奈川県平塚市の2間しか無い小さな平屋建てを借り戸倉康守が数名の仲間達とウェットスーツ作りをスタートさせた。

最初に取り組んだのは、サーファーである自分たちが切実に欲しいと考えていたタイプのウェットスーツの開発だった。
新しいタイプの開発と同時進行で、日本人の体型とサーフィンの動きに合わせた型紙作りが追求された。
プロトタイプのテストは、スタッフの手に委ねられ、戸倉康守らスタッフのフェイバリットスポット、酒匂川河口を中心に行われ、そこで手応えのあったウェットスーツが、小川秀行・小室正則・上杉俊二・青田琢二・添田博道らによって湘南の海で試され、ようやく製品化されていった。
サーファーである自分達が造るサーフィンのためのウェットスーツなのだから、というプライドからだった。

当時に作られた初代フルスーツ。DOVE 本社のエントラス正面に飾られている。

後に開発されたタートルスーツ

1976

日本初のサーフィン専門誌サーフィンワールドの登場によりにわかにサーフィンが一般に広まりを見せる。その頃新しいタイプのウェットスーツが当時地形の決まっていた酒匂川河口でテストされていた。また、ノースショアのハイワで行われた、マーボロイヤルにて、( 現在のハレイワインターナショナル ) 添田博道が、デーンケアロハ、バテンス、マークリドルらを相手に4位入賞を果たす。
そして、この年に行われた大小会わせて6戦開催された国内プロコンテストでは2勝を上げ、その実力を証明した。

日本が誇るリーバーマウス酒匂に集まったトッププロらとウェットの開発に取り組む。サーフィンワールド誌・文中より

1977

この年、創立当初から開発が進められてきたショートスリーブ/ロングショーツ(シーガル)、ショートスリーブ/ショートショーツ(タートルスーツ)の製品化に成功する。

今日では一般的な名称となっているが、シーガルスーツ、タートルスーツの名称はもともとは DOVEのオリジナル・モデルネームであったのだ。また、後に『デカダブ』と呼ばれ、チームの象徴ともなり、若きサーファー達の憧れともなった背中への大きなロゴマークプリントの登場もこの年のことである。

この年に作成された当時流行したレインボーデザインのベストを、カリフォルニアのサーフボードブラシ職人にプレゼントした。そしてなんと 25 年後に発見され、ダブファクトリーに変換された。

1978

8 ー 10 フィートのノースショア・サンセットで、3 日間にわたり行われたプロトライアルで添田博道が 7 位に入る成績を残し、ここに日本人によるノースショアアタックが幕を開けた。そしてこの年には、新たに肩ジッパー・デザインの開発が進められつつあった。
また、設立前から戸倉康守によって培われたネッワークとフォトグラファーへのサポートによりフォトセッションが行われる様になり、初代ダブ号と共に日本全国を掛け廻る。

この年、NSA 全日本選手権のボーイズクラスで、久我孝男が優勝。

世界で活躍する署名なサーファーをワールドワイドにサポートをする。

国内の全日本選手権プロは、DOVE ライダーが上位を占めた。左 / 青田琢二(3位) 中央/ 添田博道(優勝) 右 / 渡辺文好(2位)Photo/Hatakeyama

1979

9 月、静波で開催された JSO プロアマコンテストでは添田博道、青田琢二のワン・ツー・フィニッシュに加え、当時15歳だった久我孝男が並みいるプロを抑えて 3 位に入賞するという成果を上げた。NSA全日本選手権のジュニアクラスで久我孝男が優勝し、メンクラスで糟谷修二が優勝した。そして海外の試合では、IPS(ASP の前身 ) のオーストラリアで行われたワールドサーキット第1戦スタビーズクラシックで、添田博道が17位入賞。同年、日本国内初のワールドサーキット戦で、3位入賞を果たし、現在でも日本人が残した最高位となっている。
この年、タイフーンスウェルを追って四国、九州とサーフトリップを続けたダブチームは、チームにとっても、添田にとっても初めてとなる、サーフィンワールドの表紙を飾ることとなった。さらに、スウェルに恵まれたこのトリップでは、ウェットのテストに充分な時間と波を得ることが出来、ついに肩ジッパーのデザインがこの年完成した。

10月、一時970hPaまで発達した台風のうねりで、まる1週間 日本の太平洋岸は天国だった。Shunji Uesugi@Ohsaki
/Photo:Hatakeyama

1980

重鎮となる蛸操が DOVE チームに加わった。また、プロコンテストでは海部マスター造道卓がチューブを制し、貴重な勝利を挙げる。海外では6月に始めてバリで開催された、インターナショナルプロコンテスト “OM バリ” のジャッジに戸倉が選ばれる。
その冬、添田博道が、ノースショアパイプラインの12フィートをバックサイドでメイク。フォトグラファーの近藤公朗がそのシークエンスを収め話題となった。
この年の冬、戸倉康守は、札幌出身の田川昇の招きで初めて北海道・イタンキ浜でのサーフィンを体験する。あまりの水温の低さに驚き、この時、この北海道で通用するウェットスーツこそ本物のウェットスーツだと痛感した。そして、極寒地用ウェットスーツの開発に着手することになる。

この海部河口の波に魅せられ住みついた海部マスター造道卓が、ラハイナカップ・プロコンテストで見事優勝を果たす。

1981

4月にオーストラリアから戸倉康守によって日本国内にトライフィン・ロニーウッドワードシェイプのボードが初めて持ち込まれ、ネットワークを通じて国内の様々なメーカーに渡り日本国中を駆け巡ったのは、知る人ぞ知る事実である。またサーフムービー『アジアン・パラダイス』撮影開始。添田博道、蛸操、市川武昌、戸倉康守の 4 名のサーファーそして、サーフィン・クラシック編集長の石井氏によるニアス島サーフトリップ。この旅のジャングルでの生活は全員に強烈なカルチャーショックを与え、これが今後の海外ハードコア・サーフトリップの原点となった。
また、サーフボードに入るチームダブロゴが、巷の憧れとなり、ユーザーが高額を出しても欲しいと言う現象が起きた。

ニアス島を訪れた博道・蛸・戸倉・市川武昌の4名。カルチャーショックを受けたが、そこにパーフェクトウェーブがあった。サーファーにはこれだけあれば充分だ。

1982

久我孝男プロデビューをファイナルまで勝ち進み、同チームの添田博道との一騎打ちの激戦が繰り広げられ劇的な勝利で飾り、翌年からの快進撃が始まる。。一方ガンストン 500 へ出場のため、久我孝男、蛸操、戸倉康守、植田義則は、初めての南アフリカ・ジェフリーズベイへトリップを行う。そしてこの年の冬、遂にパイプラインの目の前に家を構えたダブチームは、ノースショアという大きな目標に向かい、本気の取り組みを開始した。その家は、『DOVE HOUSE』と名付けられた。

Kenui-Rord.59-343 番地の今は無きダブハウス。この年から数々の伝説が始まる。

1983

台風シーズンの九州ではパーフェクトレフトに遭遇。さらにコンペティションシーン以外のムーブメントとして、サーフィン・クラシック誌の映画撮影のためインドネシア・ツアーが重ねられ、チームからも多くのサーファーが参加した。
IPSからASPに変わったワールドサーキットオーストラリア・レッグ2戦のスタビーズクラシックで、久我孝男がファイナルまで勝ち進み結果 17 位入賞を果たす。そして、国内サーキットではプロ2年目にしてグランドチャンピオンに輝いた。
また、NSA 全日本選手権のジュニアクラスで、鈴木直人が優勝し、メンクラスでは池谷真一が優勝した。

9月に発行されたサーフィンクラシック・カバーショットの添田博道。映画アジアンパラダイス撮影の為訪れたバリ島で決めた記念すべきショット。

1984

柳沢純一が阿字ケ浦マスターズで初優勝。更に今須伸政はオールジャパンプロでプロ1年目にして優勝という快挙を成し遂げた。また、大混戦の JPSA サーキットを制して添田博道が初のグランドチャンピオンに輝く。また秋のプロクラス・トライアルでは中村大輔、松尾博幸、杉本忠昭らがプロ公認を獲得しステップアップする。制作が進められてきたサーフィン・クラシック誌の映画『アジアン・パラダイス』もこの年遂に完成した。

映画「アジアンパラダイス」がついに完成。インドネシアの楽園という素晴らしさ過酷さをも表現した貴重な映画。

1985

JPSA サーキット全 6 戦中 4 勝し2度目のグランドチャンピオンに輝き、日本国内のコンペティションシーンは久我孝男の時代を迎える。また、JPSA 第3戦は初のバリ島で行われ、添田博道が優勝。
そして、冬のノースショアで行われたパイプラインマスターズでは、久我孝男が10位入賞と日本人として好成績を果たす。また、この頃開発された画期的な『カラースキン』の登場により、冬の黒一色だったポイントの風景は、明るい華やかなイメージへ生まれ変わった。

黒が主体だつたフルスーツから画期的なカラースキンが投入され華やかなイメージに変わった。

1986

久我孝男が3度目となる2年連続グランドチャンピオンに輝き、チームのサーファーが国内サーキットで大活躍。ファイナルトップ 16 に 7 名の選手が入る。そして、添田博道が JPSA のサーキットの第一線を退き引退を決意した年だった。千葉ではドカリがこの時期テイクオフから掘れあがるチューブになり、カルビン前田がサーフィン専門誌の表紙を飾ることになった。一方、海外サーフトリップでは、増田昌章、中和房、千葉公平、戸倉康守がフォトグラファーの木本直哉とペルーに向かう。乾ききった不毛の大地を背景にした不思議なパラダイスを国内に初めて紹介した年であった。

3度目のグランドチャンピオンに輝いた久我孝男。無敵の久我孝男の時代と言われるほどの強さを見せつけた。

1987

ノースショアのダブハウスで養われたハワイアンとのコミニュケーションにより、今須伸政はパイプマスターズでもその存在感をアピールする。またこの冬に撮影された新居秀男の写真は『サーフィンワールド』『サーフィンライフ』両誌のカバーとなり、数々のノースショアにおけるベストショットとしてダブチームのサーファー達が紹介される。ダブハウスの成果が様々な形となって表われ始めた。さらに久我孝男が圧倒的な強さで4度目、3年連続のグランドチャンピオンに輝き記録を更新し、ASP トリプルクラウンのすべてのファイナルラウンドに進出という快挙を成し遂げた。一方ではコンペティションシーンを離れて新たに掲げられたチームのテーマ、ハードコアサーフィンの追求が始まり、新たな目標への軌道修正となった一年。ディーン・ケアロハの招きによる、添田博道、増田昌章、そしてフォトグラファー近藤公朗とタヒチへトリップ。

セカンドリーフのビッグセットにアタックする今須。この時たくさんの観客の歓声が沸き上がっていた。

1988

グランドチャンピオンは千葉プロV6と共に4年連続で久我孝男の手に。最強チームは新たな道へと進みハードコアサーフィンの追求、そしてサーフトリップを追求。ニューサウスウェルズ州に高津佐浩行が、ウエスタンオーストラリアには今須伸政、谷内太郎がフォトグラファー木本直哉と共に旅たち、それまで日本人によって紹介されていない処女地へとチームはサーフサファリへ向かって行った。NSA全日本選手権のシニアクラスで、平山孝継が優勝した。

久我孝男4年連続グランドチャンピオンの偉業を達成。

1989

高津佐浩行が阿字ケ浦の4フィートオーバーのクラシックウェーブでのコンテストで、6年目にして念願の優勝を果たす。この年から出たダブのアナザーブランド・ウェーブアタックが登場。マークをライダーになった高津佐がみずからデザインをした。そして、10 年ぶりの茅ヶ崎西浜、圧巻だった勝浦のサンドラ。素晴らしい波を求めて活動は加速した。一方、トップサーファーの離脱によりショックを受けた戸倉康守は、ハワイで負った足の傷と、心の傷を癒すため、リハビリを兼ねロングボードを携えカリフォルニアへと 6 ヶ月の旅に出た。そしてこの旅が 90 年代に向けての DOVE の新しい方向性を追求する旅となった。

高津佐自らデザインした、DOVEのアナザーブランド・ウェーブアタックが誕生。その時のカバーショットがサーフィンライフに掲載された。

1990

世界アマチュア選手権メンズで福地孝行がグランドファイナル進出し7位という快挙を成す。そして、JPSA 第3戦千葉プロオープン3位でプロとなり、なんと最終戦でいきなり優勝し、ルーキーオブザイヤーを獲得した。また、この年の仁淀川河口の波は 79 年にサーフィン雑誌に特集されて以来、今日に至るまでのベストショットである。その波に巡り会えたのが、蛸操、福地孝行だった。また、春のプロクラストライアルでチームに久々にレディースプロ・永井貴美が誕生した。

この年に巡り会えた最高の仁淀。テイクオフと同時にチューブになるライトの波だった。ともかくパワフルで蛸操が持って行った2本の 6ʼ 10” は最終日に両方共折れてしまったと言う。

1991

この年は、8月までかなりの雨量を記録し日本全国の河口の地形が整い、チームライダー達は縦横無尽に駆け回った。そして、チームライダー達の沢山のショットをフォトグラファー木本直哉、近藤公朗が残した。つまり日本の、いや地球上の素晴らしい波を求めて、当たる当たらないは別として常に東奔西走していると言う事だ。この年から JPSA ロングボードサーキットが始まり、小室正則、増田昌章、谷内太郎らが公認され参戦。そしてショートウィメンズでは、造道生がプロ5年目にして優勝する。

プロ5年目にして念願のグランドチャンピオンに輝いた、造道生。Photo:HidenoriNakajima

1992

日本国籍ハワイ育ちの純城がたった5年のサーフィン歴で、カリフォルニア PSAA で5位入賞を2回獲得。又、全戦ホローしていないのに拘らず、トップ16位以内入りを果たす。フランス・ラカナウビーチでの世界アマでは、メンズクラスで脇田貴之が 9 位入賞を果たし、近い将来チームの中心となる予感を思わせた。昨年に続き、台風スウェルが四国河口に届き、カメラマンの木本直哉が歴史的ショットを残す。この年に新しい生地ニューロ39という保温力のあるモデル製品化に成功。今まで考えられる限りのハードな条件でのテストを繰り返し、新素材を採用したモデルを製品化した年となった。

9月上旬にヒットした台風のうねりで、ローカルサーファーにしか知りえないような領域の姿を垣間見せた仁淀。その至福をあじわった純城。Photo:Naoya Kimoto

1993

グランドチャンピオンのタイトルを城純が獲得。福地孝行もファイナルレーティング2位となり王座奪回をワンツーフィニッシュで決める。そして、プロロングボード戦では、小室正則がオールジャパンプロで優勝を飾る。また、チームの選手もそれぞれが海外トリップで地球上の楽園を求めた旅をおこなった。ノースショアでは脇田貴之のパイプラインアタックが日本のサーフィンメディアに大フィーチャーされた年でもある。

グランドチャンピオンに輝いた純城。ハワイ生まれだが日本人の国籍を持つ。このショットは US サーファー誌でも見開きで掲載され、知名度も一気に高めた。Photo:NaoyaKimoto

1994

国内サーキットで、昨年に続き、純城が1位、福地が2位のランキングで、2年連続のワンツーフィニッシュと活躍した。またこの年、バリを起点にチャーターした65フィートのヨットでクルーズ。チームの 7 人の男達(戸倉康守を筆頭に中和房・小野瀬裕一・南隆史・谷内太郎・松尾博幸・カービー福永。そして、ガイドにバリ島からガンティヤサ)らがインドネシアの島々でサーフィンしたボートトリップは、後に日本中のサーファーから注目を集め、今日のメンタワイ、モルディブ、ロンボク、フィジーと、もう一つの新しい形のボートトリップ&サーフエリアの火付け役となった旅となる。NSA全日本選手権のボーイズクラスで、大野修聖が優勝し2位に仙雅と兄弟ワンツーフィニッシュを成し遂げた。

日本人初のボートトリップの始まり。キャプテン&ガイドのガンティと7人のDOVEメンバー達。

1995

ハレイワインターナショナル Jr. で大野仙雅が優勝。福地孝行は世界を目指し、20 周年を迎えチームの活動は益々躍進。さらにレディースで造道生はグランドチャンピオンに輝き、全日本アマではボーイズクラスで、大野仙雅が優勝、2位に修聖が入り、昨年に続き兄弟ワンツーフィニッシュを決め、ジュニアで牧野優介が優勝する。また、この年はダブスタッフによる新素材テストの結果、ハニカムスキン、ニューロチタニウムという新しく軽い新素材によるウェットスーツを開発。新時代のパフォーマンス・ウェットスーツの幕開けとなる。

ボーイズ&ジュニアから強靭の足腰を使ったパワーサーフィンで頭角を現した大野兄弟のノリこと大野仙雅。写真はその後のバリ島・パダンパダンのショット。Photo:NaoyaKimoto

1996

94 年を皮切りに戸倉康守率いるボートトリップをこの先毎年行う事となる。DOVE クルーは、まずはモルジブでの出港。クリスタルブルーの美しい海にパーフェクトブレイク、魚も豊富でダイビングとしても盛んなところだった。数年前、堀口鉉気からスイムフィンのホルダーの付いたウェットを作って欲しいとのオーダーがあり、ファクトリースタッフは不思議な思いで作っていた。そしてビッグウェーブに挑むライディングショットがこの秋に掲載され、その堀口が必要としていた事が明らかになった。ハードコアサーフィンの真髄とも言える程の波が日本にある事を証明し、又、チームの歩むべきひとつの道がそこに印されていた。96ʼハンティントンの世界選手権メンズで、牧野優介がプロを相手に27位となった。また、NSA全日本選手権のジュニアクラスで、大野仙雅が優勝した。

CELESTE 号。ダイビングでも有名なビューティフルロケーションのモルジブ。ポイントブレイクが点在する波を追いかけての船上生活は格別だった。

1997

5月に、初のメンタワ諸島へのボートリップがスタート。極上のクラシックブレイクが点在する島々、ライダー達は歓喜と共に果敢にチャージした。
NSA 全日本選手権のボーイズクラスで伊豆出身の進士剛光が優勝し、メンクラスで千葉(鴨川)出身の牧野優介も優勝。そして更にレディースクラスも仙台出身の佐々木柾由美が優勝した。

キャプション:この年の5月、初のメンタワイ諸島へボートトリップ。無数に点在するパーフェクトウェーブがある、まさにパラダイス天国だった。

1998

この年、冬の極寒・北海道でもサーフィン出来るウェットデザインであり、常に腕周りの動きを第一に考え、コイルドライジッパーを使用したマニアックモデルが、テストにテストを重ねた末に生み出された。
NSA 全日本選手権のボーイズクラスで渡辺将人が優勝し、ジュニアクラスで進士剛光が2年連続の優勝を果たした。

極寒の地でもアグレッシブな動きが出来るように開発されたモデル名はマニアックモデル。腕の動きを損なわないデザインのコイルドライジッパーを採用することで、より快適にサーフすることを実現した。

1999

NSA 全日本選手権のジュニアクラスで、渡辺将人が優勝し昨年に続く2連覇を成し遂げた。

パイプラインなどのリーフにヒットするビッグウェ-ブにチャージする脇田貴之の必需品であるヘルメット。写真では解り辛いが前頭部が破損しており、彼曰くこのお陰で今尚もチャージし続けられるんですと言っていた。

2000

この年はボートトリップイヤーで、4月のモルジブから立て続けにメンタワイ、そして初のマダカスカルツアーとインド洋を横断したかのようなトリップだった。DOVEのネーミング通り、戸倉康守が描いていたボートで世界中をWAVEサーチすることが実現し、未知なる地・島へと航海し続ける。

SONS SOUCI 号 / ロケーション:メンタワイ諸島 May/ 2000

2001

真冬のフルスーツの裏生地に使うマテリアルが種類豊富になった。運動性に保温性を兼ね備えたニューロモデル、軽量化と保温性を高めたエアパイルモデル、保温性と伸縮性を両立させた PP スキンモデルがラインナップ。

日本全国の真冬の海に対応すべく3種類の裏生地がラインアップ。各地でより快適にサーフできるための素材選びが可能になった。

2002

JPSA ウィメンズで永井生がファイナルレーティングトップのグランドチャンピオンに輝く。

現在はWCTコンテストが開催される、レフトのパーフェクトウェーブで有名なフィージー島。プリンセス2号で旅をした。

2003

東北と北海道の極寒の地でテストを重ね遂に完成したドライスーツ。モデル名は” ホットスーツ” 真冬の極寒でのサーフィンが可能となった。
NSA 全日本選手権のシニアクラスで、黒木雄一が優勝した。

極寒の地でテストされたサーフィン専用ドライスーツ"ホットスーツ"

2004

東北と北海道の極寒の地でテストを重ね遂に完成したドライスーツ。モデル名は” ホットスーツ” 真冬の極寒でのサーフィンが可能となった。
NSA 全日本選手権のシニアクラスで、黒木雄一が優勝した。

未開のテロアイランドへボートトリップ、カティカ号。

2005

ダブ創設30周年を迎える。30年に及ぶダブライダー達の歴史を綴る記念誌が発行された。
湘南・鵠沼海岸にて行われた NSA 全日本選手権にて、ボーイズクラスで松岡慧斗が優勝し大橋カイトが3位、ジュニアクラスでは福嶋竜也が優勝、マスタークラスで磯部康典が3位、ウィメンクラスで松木裕子が3位入賞を果たした。

30周年記念誌162COVERS。AlwaysSearching for thePerfect Wave… タイトル通りこれからも素晴らしい波を探し続ける。

2006

梅雨が明け日本各地の河口にスーパーバンクが出現し、台風のスウェルがヒットした当り年だった前半は台風が東シナ海を通過した為、四国高知の河口が炸裂そして徳島海部へとウネリが届き、その次は関東の西湘にエクセレントチューブをもたらしたその模様は、サーフ1st 誌の特集として紹介された。コンテストでは、宮崎で行われた NSA 全日本選手権で DOVE ライダー達が各クラスで活躍。キッズクラスで石川拳大が4位、ボーイズクラスで和光大が優勝、ジュニアクラスで福嶋竜也が2位、ウィメンズクラスで松木裕子が2位入賞を果たした。

西湘・酒匂川に記録となるビッグスウェルがヒット!!えふとのビッグバレルをクルーズする高津佐浩行。

2007

世界最高峰のビッグウェーブコンテストエディーアイカウの招待選手に脇田貴之が選ばれたこの年は波が立たず延期となった。歴史上、久我孝男に次ぐ日本人2人目となる快挙で、名誉ある出来事にチーム全員が興奮した。

ハードチャージする脇田貴之のリクエストのリーフにヒットした時に衝撃を抑えるパッド入りのスーツ。そのウェットを見た世界のチャージャーたちが絶賛し話題となった。

2008

昨年に続きエディーアイカウの招待選手として脇田貴之が選ばれるが、またしても相応しい波が立たず延期となる。
インドネシア・バリにて第 1 回アジアビーチゲームズが開催。チームジャパンとして出場した、宮崎出身のライダー黒木雄一がエアリアル男子部門で銀メダルを獲得。チームジャパンは総合・銀メダルを獲得し、大きな貢献を果たした。

脇田貴之。2 年連続でエディーアイカウに招待されたが、去年に続きキャンセルとなった。

2009

この年還暦を迎えた戸倉康守へのプレゼント企画をカービー福永、戸田夫妻らが持ちかけ、メンタワイ諸島で、氏のお気に入りボート、サンスチ号をチャーターした。日本での還暦には赤いチャンチャンコを着る風習があるが、ダブスタッフが作った真っ赤なベストを着て極上のチューブライディング決め、忘れられない記念のトリップとなった。
脇田貴之が6年振りに開催されたエディーアイカウに出場。豪快にチャージする姿は、日本が誇るレジェンドとして歴史に刻まれる元グランドチャンプの沼尻和則が JPSA プロツアー引退する。

赤いベストを着て何本もの極上ウェーブに乗り、中でもベストなタイミングでチューブをメイクした戸倉。

2010

脇田貴之が、なみある?アースアワード2010にて第1回アースアワードを受賞そして、4度目のエディーアイカウの招待選手に選ばれる。

受賞した脇田貴之プロのスピーチは素晴らしかった。

2011

脇田貴之が5度目のエディーアイカウの招待選手に選ばれる。更にバリ島パダン・パダンでリップ・カール・カップ・インヴィテーショナル・パダン・パダンのトライアルで優勝しメインイベントに出場。DOVEが辿り着いた究極のソフトドライスーツ・クリオネが10年の年月を掛け獄寒地で度重なるテストを繰り返し完成。

RIP CURL CUP PADANG PADANGに招待された脇田貴之。このコンテストに出場するサーファーは、WSLランキングでエントリーを決めるものでは無く、これまで如何に世界中のヘビー&ホローウェイブを制覇してきたのかという評判と実績がインビテーション唯一の基準となる。

2012

脇田貴之が6度目のエディーアイカウの招待選手に選ばれ、Webサーフラインの Wave of the Winterにノミネートされる。そして、オーストラリアで5年間サーフィン留学し、帰国後JPSA公認プロ資格を得たルーキー和光大が、オールジャパンプロで見事優勝を果たした。また、長年JPSAトッシードに君臨してきた関谷利博がプロツアーを引退した。
ISA世界ジュニア選手権パナマにU-16 ボーイズクラスに村上舜、U-18ガールズに黒川日菜子が日本代表として出場。

5年間のオーストラリア留学から帰国後に、見事JPSAオールジャパンで優勝を果たした、和光大。

2013

脇田貴之が7度目のエディーアイカウの招待選手に選ばれる。世代交代を匂わせる若手選手たち2世サーファーが頭角を現し始めた。その一人、村上舜が ASP ジャパンツアー最終戦の MALIBU HYUGAPRO で優勝し、同郷の松下諒大は Ocean&EarthTeenageRampage プロジュニア U-16 カデットで優勝。更に NSA 第 21 回ジュニアオープンサーフィン選手権大会ジュニアクラスで優勝を手にした。
さらに、幼少の頃から見守り続けた、純日本人ハワイ育ちの前田マヒナの快進撃が始まる。2012-13ISA ワールドジュニアサーフィンゲームスで2連覇を達成世界ナンバーワンに! 2014 Allianz ASPWorld Junior Portugal ウイメンズで優勝 / 世界 NO-1 の座を獲得。

海岸線に雪と氷が張った厳冬期の北海道で、ライダーの真木勇人が完全防備のスタイルで、素晴らしいライディングを披露した。

2014

脇田貴之が栄誉ある8度目のエディーアイカウの招待選手に選ばれる。ISA 50th 記念のワールドサーフィングゲームペルーに日本代表選手として黒川日菜子と松下諒大が出場。更に松下は、国内の NSA第 22 回ジュニアオープンサーフィン選手権大会ジュニアクラスで 2 連覇を果たした。プロディビジョンもASP/QS Pro JuniorMURASAKI SHONAN OPENで見事優勝。また、同郷の湯河原ボーイズ村上瞬の弟、蓮が IZUSuper Kids Challenge カデットで優勝と Go-proJuniorgames カデットで今期2度の優勝を決めた。

湯河原ボーイズの一人・村上蓮。IZUSuper Kids ChallengeカデットとGoPro Junior Gamesの今季2度を制覇。

2015

JPSA ランキングでは、15位に松下諒大、16位に村上舜の2名がベスト16に、ウィメンズでは4位に高橋みなとがランクインした。

カリフォルニア・ハンティントンで行われたISAワールドジュニアゲームスに出場し、世界ベスト4に輝いた村上舜。

2016

JPSA 最終ランキング
メンズ / 村上舜が7位、脇田泰地が16位にランクインし、来年のトップシードを獲得。数回しか出場しなかったにも拘わらず、2016 年ランキング・7位にランクされる。ウィメンズは、高橋みなとが4位にランクインし、彼女も来年のトップシードを獲得。

ショート
JPSA 第1戦 /Bali:児玉椋・7位、松下諒大・9位入賞。
第2戦 / 伊豆下田:村上舜・優勝、高橋みなと7位入賞。
第3戦 /JPSA/WSLJapan コラボ試合・伊良湖:脇田紗良・準優勝、黒川日菜子・5位入賞。
第4戦 / 新島:村上舜・優勝、高橋みなと5位入賞。
(シニアプロで、徳田昌久・3位、関谷利博・4位、比嘉力夫・5位入賞。)
第6戦 / 湘南鵠沼:高橋みなと・7位入賞。
第7戦 / 千葉鴨川:村上舜・準優勝、脇田泰地・5位、高橋みなと・3位入賞。
第8戦 / 千葉一宮:脇田泰地・9位、黒川日菜子・初優勝、高橋みなと・5位入賞。

JPSA 最終ランキング
メンズ / 村上舜が7位、脇田泰地が16位にランクインし、来年のトップシードを獲得。
ウィメンズは、高橋みなとが4位にランクインし、彼女も来年のトップシードを獲得。

ロング
第1戦 /Bali:池田千晶・5位入賞。
第3戦 / 千葉千倉:松山欣則・9位入賞。
第4戦 / 湘南鵠沼:松山欣則・5位、一岡祥平・9位入賞。

2017

ショート
JPSA 第1戦 /Bali:脇田紗良・3位、高橋みなと・7位入賞。西村いちごがプロ公認を獲得。
第2戦 / 伊豆下田:脇田泰地・3位入賞。
第3戦 / 伊良湖:脇田紗良が初優勝、高橋みなとが3位入賞。太田拓杜がプロ公認を獲得。
第4戦 / 新島オールジャパンプロ:一時帰国の村上舜が昨年に次ぐ2連覇の優勝を果たし、黒川日菜
子が5位入賞。
第5戦 / 茨城:松下諒大・9位入賞。
第6戦 / 種子島:脇田紗良・3位、黒川日菜子・5位入賞。
第7戦 / 千葉:村上舜・3位、脇田泰地・9位、黒川日菜子・3位、高橋みなと・7位入賞。

WSL Minami Bosso Junior Pro で、脇田紗良が準優勝。

静岡で行われた NSA 全日本選手権では、プロ獲得したが今年はアマチュアとして出場した2名、ジュニアクラスで太田拓斗が準優勝、ガールズクラスで西村いちごが3位入賞を果たした。

ダブ創設から42年、世界中を航海し数々のリアルハードコアモーメントを残してきたダブ・クルー達は、コンペティションシーンでも沢山の選手が活躍をし名を残してきました。戸倉康守が描いたサーフィンと言う職業の総てをまっとうしてきた証と世界中を自身が見続けたからではないだろうか。これからも変わらずサーフィンを愛する仲間達と共に7つの海を舞台に航海し続けて行く事でしょう。新たな歴史の1ページを求めて・・・

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