HISTORY

PROLOGUE

ケヌイロード 59-343 番地

マスターズを観戦するチームクルー
Photo/Kondo

今はエフカイビーチパークの一部となってしまった幻の番地に、かつてダブハウスと呼ばれた赤い屋根の白い大きなビーチフロントハウスが建っていた。

1980年代始めから終わりまでの間、世界最高峰の波に挑む日本のサーファーにとって最前線の基地であった。
その庭先の目の前は、世界最高のレフトの波ーパイプラインがブレイクしている最高のロケーション。

ローカルを始め世界中から集まるトッププロに混じってサーフできた背景には、陰で戸倉自身が、デーンケアロハやキニマカ兄弟、ジョニーボーイとジュニアと行ったハワイの重鎮らとコミニュケーションをとっていたからだ。

そして、日本中から集まった強者達が互いに刺激し合い、多い時には20人以上のサーファーが滞在し切磋琢磨した。
その介あって、添田博道が78年のプロクラストライアル7位の入賞から始まり、今須伸政がパイプマスターズのチャージで伝説を残し、同時に久我孝男が10位入賞を果たして、エディーアイカウメモリアルのインビテーションカードを手に入れた。

2002年パイプマスターズのロコトライアルでは、脇田貴之がパーフェクト10を出す偉業を成し遂げ、パイプ奥のポジションにワキタピークと名付けられ誰もが称する様になる。更に、日本人2人目となるエディーアイカウメモリアルのインビテーションカードを手に入れ、2014-15年も2度目のインビテーションカードを手にする活躍がある。

まだ携帯もネットも無かった時代から日本人サーファー達にとってどれほど心強かったか、これら数々の伝説を作り上げてこれた背景には、このダブハウスが築き上げたといっても過言ではない。

今は跡形も無くなってしまったダブハウスだが、このノースショア伝説は永遠に語り継がれることであるだろう。
次の世代達がこれからもっと活躍する事を願いながら・・・

INTRODUCTION

モダンサーフィンの夜明け

サーフィンの為にという思いで完成した、初代フルスーツ。これからDOVEの歴史がスタートした。

モダンサーフィンが日本に伝わってきたのは 1960年代の初めのことだった。
そして、’70年代を迎える頃には、湘南や千葉に幾つかのサーフボード・メーカーが生まれ、やがて日本の各地にも確立されていった。
それでもまだ、サーフィン専門といえるウェットスーツ・メーカーは存在せず、サーファーは、海外から輸入されたものか、ダイビングスーツ・メーカーが、3ミリの生地で製作したもので我慢するしかなかった。
素材自体も今日とは次元が違うほど劣っていたが、それでも裁断や縫製など、改良の余地はあった。バリエーションも、わずかにタッパ、ビーバーテール、ロングジョン、ショートジョンといった程度でしかなく、寒さを凌ぐには、重ね着をするしかない時代だった。

あの頃の多くのサーファーにとって夏以外の季節は、今から思えば混雑と無縁な至福の季節だったといえるかもしれないが、寒さと動きにくさに耐えなければならない受難の季節だったのである。
’74年から’75年にかけての冬のハワイ。’60年代にサーフィンと出逢い、その虜になっていたひとりの男がいた。ホームグラウンドの湘南を中心にして、海部をはじめ日本の素晴らしい波を求めた旅をし、各地のサーファーとも交流を深めていた彼だったが、25歳という年齢を迎えて、サーファーとしての自分の生き方も、ひとつの節目を迎えていると感じていた。

DOVEの誕生

社名の由来となった映画『DOVE/ダブ』

仲間と一緒に、サーフィンで暮らしをしていきたかった。けれど、それまで自分の力になってくれた先輩達と衝突するようなことはしたくない」
あの頃、サーフィンで暮らすといえば、サーフボードファクトリーかサーフショップを始めること。しかし、それもなんとかやっていけるようになったばかりだった。彼はそれまで親交を結んできたサーファー達と、どこかで対峙することになりかねないような仕事を始めたくはなかった。だが彼は、サーフィンで暮らしていきたいのだ。

そして彼、戸倉康守は、サーファーである自分達が欲しい機能とデザインを追求する、サーフィンのためだけのウェットスーツ・ファクトリーをやってみようと思い立ったのだ。帰国した彼は、ダブ・サーフィング・ウェットスーツを設立。

そのネーミングの由来は、24フィートのヨット、ダブ号で世界一周単独航海に船出した少年が、5年の歳月をかけて5万6千海里の冒険航海を達成するまでの実話をもとにした映画『DOVE/ダブ』からだった。
ダブ号のように、自分達の作るウェットスーツが、世界中の波の上で、サーファーにとって最高のパートナーとなれるよう、そんな思いの込められたネーミングだったのだ。

40年の歳月をこえて

盛大に行われたDOVE40周年記念パーティー。この日、日本全国はもとより海外から全ライダーと今まで携わって来た関係者が大勢、祝福に集まった。
Photo: Msahiko Yoshioka

そうして、1975年に産ぶ声を上げた、ダブ・サーフィン・ウェットスーツ。
創立以来、サーフィンを、ただ単にスポーツだとかコンペテションというようにカテゴライズできるものではなく、生まれてある悦びの最上のひとつと考えてきたダブは、その全人格をサーフィンに注ぎ込んで歩んできたつもりである。

それから40年。
人間は、自分達の手が加えられた環境や、人間を甘やかすような環境にばかり浸っていると、世界全体が人間のために用意されているのだという錯覚に陥る。
人間は地球のほんの隅っこを借りて住んでいるにすぎないのに、まるで主であるかのように振る舞う。
その結果のひとつが、今の日本の海岸線だ。
それを痛みと感じられるサーファーであっても、そんな錯覚とまでいかないものの、時に勘違いもあっただろう。
ダブが40年の歳月を越えてやってこれたのも、すべて波という地球の恵みあってこそ。地球上の海のほんの隅っこに、寄せ来る波という悦びの世界があったからなのだ。波と出逢うということの大前提が、人間の意志を遥かに越えた自然の領域に属していることを、時として忘れてはいないだろうか。
40年の間に私達がサーフィンしてきた数え切れないほどの素晴らしい波の総てに於いて、我々が波を当てたのではなく、私達は恵まれたのだということを。

そして、ダブが最高のサーフィング・ウェットスーツ・メーカーとしてあるのもまた、そんな私達のポリシーを理解し、評価してくれるサーファー達がいたからだということも、私達は忘れない。ダブの仕事には、素晴らしいサーファーというパートナーの存在がなくてはならないからだ。そんな素晴らしいサーファーと共に未来へと、私達も歩んでいきたい・・・

OUR HISTORY 1975-2017

1975

ダブ創設

神奈川県平塚市の2間しか無い小さな平屋建てを借り戸倉康守が数名の仲間達とウェットスーツ作りをスタートさせた。

最初に取り組んだのは、サーファーである自分たちが切実に欲しいと考えていたタイプのウェットスーツの開発だった。
新しいタイプの開発と同時進行で、日本人の体型とサーフィンの動きに合わせた型紙作りが追求された。
プロトタイプのテストは、スタッフの手に委ねられ、戸倉康守らスタッフのフェイバリットスポット、酒匂川河口を中心に行われ、そこで手応えのあったウェットスーツが、小川秀行・小室正則・上杉俊二・青田琢二・添田博道らによって湘南の海で試され、ようやく製品化されていった。
サーファーである自分達が造るサーフィンのためのウェットスーツなのだから、というプライドからだった。

当時に作られた初代フルスーツ。DOVE本社のエントラス正面に飾られている。

後に開発されたタートルスーツ

1976

日本初のサーフィン専門誌サーフィンワールドの登場により、にわかにサーフィンが一般に広まりを見せる。その頃新しいタイプのウェットスーツが当時地形の決まっていた酒匂川河口でテストされていた。また、ノースショアのハイワで行われた、マーボロイヤルにて、(現在のハレイワインターナショナル)添田博道が、デーンケアロハ、バテンス、マークリドルらを相手に4位入賞を果たす。
そして、この年に行われた大小会わせて6戦開催された国内プロコンテストでは2勝を上げ、その実力を証明した。

日本が誇るリーバーマウス酒匂に集まったトッププロらとウェットの開発に取り組む。サーフィンワールド誌・文中より

1976年(昭和51年)6月にオーシャンライフから臨時増刊号として発行された「サーフィンワールド創刊号」編集人・石井英明氏によりこの1冊からすべては始まった。

1977

この年、創立当初から開発が進められてきたショートスリーブ/ロングショーツ(シーガル)、ショートスリーブ/ショートショーツ(タートルスーツ)の製品化に成功する。

今日では一般的な名称となっているが、シーガルスーツ、タートルスーツの名称はもともとは DOVEのオリジナル・モデルネームであったのだ。DOVEが初めてカラーの広告を専門誌に出した真っ赤なフロントジップのシーガルスーツは、今ではシーガルというタイプの名前が使われているが、このネーミングはDOVEが付けた、いわゆる名付け親なのです。また、後に『デカダブ』と呼ばれ、チームの象徴ともなり、若きサーファー達の憧れともなった背中への大きなロゴマークプリントの登場もこの年のことである。

シーガルスーツを戸倉自らが出演する専門誌と共に始まる歴史の第一歩。

当時使用しいた手書きのカタログ。これを片手に全国営業にまわっていた。

1978

8〜10フィートのノースショア・サンセットで、3日間にわたり行われたプロトライアルで添田博道が7位に入る成績を残し、ここに日本人によるノースショアアタックが幕を開けた。そしてこの年には、新たに肩ジッパー・デザインの開発が進められつつあった。
また、設立前から戸倉康守によって培われたネッワークとフォトグラファーへのサポートによりフォトセッションが行われる様になり、初代ダブ号と共に日本全国を掛け廻る。

この年、NSA全日本選手権のボーイズクラスで、久我孝男が優勝。世界で活躍する署名なサーファーをワールドワイドにサポートをする。

波を求め日本中を駆け巡った初代ダブ号

DOVE号は、プロモーションをかねて、全国をかけめぐった

1979

9月、静波で開催されたJSOプロアマコンテストでは、添田博道、青田琢二のワン・ツー・フィニッシュに加え、当時15歳だった久我孝男が並みいるプロを抑えて3位に入賞するという成果を上げた。NSA全日本選手権のジュニアクラスで久我孝男が優勝し、メンクラスで糟谷修二が優勝した。そして海外の試合では、IPS(ASP の前身 ) のオーストラリアで行われたワールドサーキット第1戦スタビーズクラシックで、添田博道が17位入賞。同年、日本国内初のワールドサーキット戦で、3位入賞を果たし、現在でも日本人が残した最高位となっている。
この年、タイフーンスウェルを追って四国、九州とサーフトリップを続けたダブチームは、チームにとっても、添田にとっても初めてとなる、サーフィンワールドの表紙を飾ることとなった。さらに、スウェルに恵まれたこのトリップでは、ウェットのテストに充分な時間と波を得ることが出来、ついに肩ジッパーのデザインがこの年完成した。

サーフィンワールド誌初カバーショットを飾った添田博道。

ついに完成した肩ジッパーのウエットスーツ。

1980

重鎮となる蛸操がDOVEチームに加わった。また、プロコンテストでは海部マスター造道(つくりみち)がチューブを制し、貴重な勝利を挙げる。海外では6月に始めてバリで開催された、インターナショナルプロコンテスト “OM バリ” のジャッジに戸倉が選ばれる。
その冬、添田博道が、ノースショアパイプラインの12フィートをバックサイドでメイク。フォトグラファーの近藤公朗がそのシークエンスを収め話題となった。
この年の冬、戸倉康守は、札幌出身の田川昇の招きで2度目の北海道・イタンキ浜でのサーフィンを体験する。あまりの水温の低さに驚き、この時、この北海道で通用するウェットスーツこそ本物のウェットスーツだと痛感した。そして、極寒地用ウェットスーツの開発に着手することになる。

この海部河口の波に魅せられ住みついた海部マスター造道卓が、ラハイナカップ・プロコンテストで見事優勝を果たす。

極寒地用ウェットスーツの開発を着手することになった。北海道イタンキ浜。Photo: Kimiro Kondo

1981

4月にオーストラリアから戸倉康守によって日本国内にトライフィン・ロニーウッドワードシェイプのボードが初めて持ち込まれ、ネットワークを通じて国内の様々なメーカーに渡り、日本国中を駆け巡ったのは、知る人ぞ知る事実である。また、サーフムービー『アジアン・パラダイス』撮影開始。添田博道、蛸操、市川武昌、戸倉康守の4名のサーファー、そして、サーフィン・クラシック編集長の石井氏によるニアス島サーフトリップ。この旅のジャングルでの生活は全員に強烈なカルチャーショックを与え、これが今後の海外ハードコア・サーフトリップの原点となった。
また、サーフボードに入るチームDOVEロゴが、巷の憧れとなり、ユーザーが高額を出しても欲しいと言う現象が起きた。

映画「アジアンパラダイス」がついに完成。インドネシアの楽園という素晴らしさ過酷さをも表現した貴重な映画。

今年、完璧な地形を形成した新島のパーフェクトライトの波に日本にはじめて持ち込んだトライフィンでドライブターンする戸倉康守がサーフィンワールド見開きに紹介された。Photo:Kondo

1982

久我孝男プロデビューをファイナルまで勝ち進み、同チームの添田博道との一騎打ちの激戦が繰り広げられ劇的な勝利で飾り、翌年からの快進撃が始まる。一方ガンストン500へ出場のため、久我孝男、蛸操、戸倉康守、植田義則は、初めての南アフリカ・ジェフリーズベイへトリップを行う。この年の台風シーズンである9月、戸倉のフェイバリットスポットの酒匂川河口にビッグスウェルが押し寄せ歴史に残るセッションが繰り広げられた。そしてこの年の冬、遂にパイプラインの目の前に家を構えたダブチームは、ノースショアという大きな目標に向かい、本気の取り組みを開始した。その家は、『DOVE HOUSE』と名付けられた。

歴史に残る酒匂川河口の波で、この日のビッグセットバレルを決めた添田博道。思い入れのあるこのポイントでの意地を見せ各地から来たプロらをわからせた一本だった。

はじめてノースショアのDOVE HOUSEに攻め込んだダブチームの面々

1983

台風シーズンの九州ではパーフェクトレフトに遭遇。さらにコンペティションシーン以外のムーブメントとして、サーフィン・クラシック誌の映画撮影のためインドネシア・ツアーが重ねられ、チームからも多くのサーファーが参加した。
IPSからASPに変わったワールドサーキットオーストラリア・レッグ2戦のスタビーズクラシックで、久我孝男がファイナルまで勝ち進み結果 17位入賞を果たす。そして、国内サーキットではプロ2年目にしてグランドチャンピオンに輝いた。
また、NSA 全日本選手権のジュニアクラスで、鈴木直人が優勝し、メンクラスでは池谷真一が優勝した。

9月に発行されたサーフィンクラシック・カバーショットの添田博道。映画アジアンパラダイス撮影の為訪れたバリ島で決めた記念すべきショット。

インドネシア・ツアーが重ねられ、チームからも多くのサーファーが参加 Photo: Naoya Kimoto

1984

柳沢純一が阿字ケ浦マスターズで初優勝。更に今須伸政はオールジャパンプロでプロ1年目にして優勝という快挙を成し遂げた。また、大混戦のJPSAサーキットを制して、添田博道が初のグランドチャンピオンに輝く。また秋のプロクラス・トライアルでは中村大輔、松尾博幸、杉本忠昭らがプロ公認を獲得しステップアップする。制作が進められてきたサーフィン・クラシック誌の映画『アジアン・パラダイス』もこの年遂に完成した。

公開された時の入場チケット。

添田博道が初のグランドチャンピオンに輝いた。

1985

JPSAサーキット全6戦中4勝し、2度目のグランドチャンピオンに輝き、日本国内のコンペティションシーンは久我孝男の時代を迎える。また、JPSA第3戦は初のバリ島で行われ、添田博道が優勝。
そして、冬のノースショアで行われたパイプラインマスターズでは、久我孝男が10位入賞と日本人として好成績を果たす。また、この頃開発された画期的な『カラースキン』の登場により、冬の黒一色だったポイントの風景は、明るい華やかなイメージへ生まれ変わった。

JPSA第3戦・バリ島で優勝した添田博道がカバーショットを飾る。

黒が主体だつたフルスーツから画期的なカラースキンが投入され華やかなイメージに変わった。

1986

久我孝男が3度目となる2年連続グランドチャンピオンに輝き、チームのサーファーが国内サーキットで大活躍。ファイナルトップ 16に7名の選手が入る。そして、添田博道がJPSAのサーキットの第一線を退き引退を決意した年だった。千葉ではドカリがこの時期テイクオフから掘れあがるチューブになり、カルビン前田がサーフィン専門誌の表紙を飾ることになった。一方、海外サーフトリップでは、増田昌章、中和房、千葉公平、戸倉康守がフォトグラファーの木本直哉とペルーに向かう。乾ききった不毛の大地を背景にした不思議なパラダイスを国内に初めて紹介した年であった。

ハワイ出身のDOVEライダー・カルビン前田/サーフィンワールドのカバーショット。

キャプション:日本人初・南米ペルーのエラドゥーラレフトをクルーズする増田”マメ"昌章。Photo:Naoya Kimoto

1987

ノースショアのダブハウスで養われたハワイアンとのコミニュケーションにより、今須伸政はパイプマスターズでもその存在感をアピールする。またこの冬に撮影された新居秀男の写真は『サーフィンワールド』『サーフィンライフ』両誌のカバーとなり、数々のノースショアにおけるベストショットとしてダブチームのサーファー達が紹介される。ダブハウスの成果が様々な形となって表われ始めた。さらに久我孝男が圧倒的な強さで4度目、3年連続のグランドチャンピオンに輝き記録を更新し、ASPトリプルクラウンのすべてのファイナルラウンドに進出という快挙を成し遂げた。一方ではコンペティションシーンを離れて新たに掲げられたチームのテーマ、ハードコアサーフィンの追求が始まり、新たな目標への軌道修正となった一年。ディーン・ケアロハの招きによる、添田博道、増田昌章、そしてフォトグラファー近藤公朗とタヒチへトリップ。

セカンドリーフのビッグセットにアタックする今須。この時たくさんの観客の歓声が沸き上がっていた。

タヒチトリップのDOVE広告。DOVEライダーとなったハワイ出身のASP選手デーンケアロハのアテンドで、マメ増田・添田博道らはアイランド特有のパームツリーをバックに無人のパラダイスウェーブを満喫した。Photo:Kimiro Kondo

1988

グランドチャンピオンは千葉プロV6と共に4年連続で久我孝男の手に。最強チームは新たな道へと進みハードコアサーフィンの追求、そしてサーフトリップを追求。ニューサウスウェルズ州に高津佐浩行(こうつさひろゆき)が、ウエスタンオーストラリアには今須伸政、谷内太郎がフォトグラファー木本直哉と共に旅たち、それまで日本人によって紹介されていない処女地へとチームはサーフサファリへ向かって行った。NSA全日本選手権のシニアクラスで、平山孝継が優勝した。

久我孝男4年連続グランドチャンピオンの偉業を達成。

ウェスタンオーストラリア・マーガレットリバーから北へ行くと数多くのポイントが存在する。この写真はビッグロックと呼ばれるレギュラーオンリーのリーフブレイクで、ロックダンスしながら向かう谷内太郎と今須伸政。Photo:Naoya Kimoto

1989

高津佐浩行が阿字ケ浦の4フィートオーバーのクラシックウェーブでのコンテストで、6年目にして念願の優勝を果たす。この年から出たダブのアナザーブランド・ウェーブアタックが登場。ライダーになった高津佐がみずからデザインをしたマーク。そして、10年ぶりの茅ヶ崎西浜、圧巻だった勝浦のサンドラ。素晴らしい波を求めて活動は加速した。一方、トップサーファーの離脱により、ショックを受けた戸倉康守は、ハワイで負った足の傷と、心の傷を癒すため、リハビリを兼ねロングボードを携え、カリフォルニアへと6ヶ月の旅に出た。そしてこの旅が90年代に向けてのDOVEの新しい方向性を追求する旅となった。

高津佐自らデザインした、DOVEのアナザーブランド・ウェーブアタックが誕生。その時のカバーショットがサーフィンライフに掲載された。

蛸操のサーフィンによって初めて全国に知られたハードなサンドラの波。Photo: Kimiro Kondo

1990

世界アマチュア選手権メンズで福地孝行がグランドファイナル進出し、7位という快挙を成す。そして、JPSA第3戦千葉プロオープン3位でプロとなり、なんと最終戦でいきなり優勝し、ルーキーオブザイヤーを獲得した。また、この年の仁淀川河口の波は、79年にサーフィン雑誌に特集されて以来、今日に至るまでのベストショットである。その波に巡り会えたのが、蛸操、福地孝行だった。また、春のプロクラストライアルでチームに久々にレディースプロ・永井貴美が誕生した。

この年に巡り会えた最高の仁淀。テイクオフと同時にチューブになるライトの波だった。ともかくパワフルで蛸操が持って行った2本の 6ʼ 10” は最終日に両方共折れてしまったと言う。Photo: Kimiro Kondo

この年プロにステップアップした永井貴美。Photo:Yoshiko Nakayama

1991

この年は、8月までかなりの雨量を記録し日本全国の河口の地形が整い、チームライダー達は縦横無尽に駆け回った。そして、チームライダー達の沢山のショットをフォトグラファー木本直哉、近藤公朗が残した。つまり日本の、いや地球上の素晴らしい波を求めて、当たる当たらないは別として常に東奔西走していると言う事だ。この年から JPSA ロングボードサーキットが始まり、小室正則、増田昌章、谷内太郎らが公認され参戦。そしてショートウィメンズでは、造道生がプロ5年目にして優勝する。

プロ5年目にして念願のグランドチャンピオンに輝いた、造道生。Photo:HidenoriNakajima

そそり立つワイメアの波にアタックする谷内太郎。ショート・ビッグウェーブガン・ロングボードとオールマイティーに操る技の持ち主だ。Photo: Naoya Kimoto

1992

日本国籍ハワイ育ちの純城がたった5年のサーフィン歴で、カリフォルニアPSAAで5位入賞を2回獲得。又、全戦ホローしていないのに拘らず、トップ16位以内入りを果たす。フランス・ラカナウビーチでの世界アマでは、メンズクラスで脇田貴之が9位入賞を果たし、近い将来チームの中心となる予感を思わせた。昨年に続き、台風スウェルが四国河口に届き、カメラマンの木本直哉が歴史的ショットを残す。この年に新しい生地ニューロ39という保温力のあるモデル製品化に成功。今まで考えられる限りのハードな条件でのテストを繰り返し、新素材を採用したモデルを製品化した年となった。

9月上旬にヒットした台風のうねりで、ローカルサーファーにしか知りえないような領域の姿を垣間見せた仁淀川の河口。その至福をあじわった純城。Photo:Naoya Kimoto

この年新しい生地(ニューロ39)と言う軽量かつ伸縮性の高い生地を採用したモデル製品化に成功。最初にテストの難関をクリアーした素材だった。

1993

グランドチャンピオンのタイトルを城純が獲得。福地孝行もファイナルレーティング2位となり、王座奪回をワンツーフィニッシュで決める。そして、プロロングボード戦では、小室正則がオールジャパンプロで優勝を飾る。また、チームの選手もそれぞれが海外トリップで地球上の楽園を求めた旅をおこなった。ノースショアでは脇田貴之のパイプラインアタックが日本のサーフィンメディアに大フィーチャーされた年でもある。

オールジャパンを制した小室正則。チームを代表するロングボーダー@辻堂Photo:Yoshiro Nakayama

サーフィンワールド誌10月号カバーショットの脇田貴之。ハワイ・ノースに留まらず、バリ島・ウルワツのクラシックウェーブでもチューブライディングを決める。まさにウォーターカメラマンとの絶妙なるコネクトした瞬間だ。Photo: Naoya Kimoto

1994

国内サーキットで、昨年に続き、純城が1位、福地が2位のランキングで、2年連続のワンツーフィニッシュと活躍した。またこの年、バリを起点にチャーターした65フィートのヨットでクルーズ。チームの7人の男達(戸倉康守を筆頭に中和房・小野瀬裕一・南隆史・谷内太郎・松尾博幸・カービー福永。そして、ガイドにバリ島からガンティヤサ)らが、インドネシアの島々でサーフィンしたボートトリップは、後に日本中のサーファーから注目を集め、今日のメンタワイ、モルディブ、ロンボク、フィジーと、もう一つの新しい形のボートトリップ&サーフエリアの火付け役となった旅となる。NSA全日本選手権のボーイズクラスで、大野修聖が優勝し2位に仙雅と兄弟ワンツーフィニッシュを成し遂げた。

日本人初のボートトリップの始まり。キャプテン&ガイドのガンティと7人のDOVEメンバー達。

65feetの KREI AN AEL号。バリ島を出港し、ロンボク・スンバワ島の波を求め初めての船中生活。Photo:Yoshiro Nakayama

1995

ハレイワインターナショナルJr.で、大野仙雅が優勝。福地孝行は世界を目指し、20周年を迎えチームの活動は益々躍進。さらにレディースで造道生は、グランドチャンピオンに輝き、全日本アマではボーイズクラスで大野仙雅が優勝、2位に修聖が入り、昨年に続き兄弟ワンツーフィニッシュを決め、ジュニアで牧野優介が優勝する。また、この年はダブスタッフによる新素材テストの結果、ハニカムスキン、ニューロチタニウムという新しく軽い新素材によるウェットスーツを開発。新時代のパフォーマンス・ウェットスーツの幕開けとなる。

ボーイズ&ジュニアから強靭の足腰を使ったパワーサーフィンで頭角を現した大野兄弟のノリこと大野仙雅。写真はその後のバリ島・パダンパダンのショット。Photo:NaoyaKimoto

ハニカムスキンとニューロチタンの2種類の新素材を使ったモデルにより、冬の厳しいコンディションにも快適にサーフ出来るようになった、新時代のハイパフォーマンス・ウェットスーツのロゴ。

1996

94年を皮切りに戸倉康守率いるボートトリップをこの先毎年行う事となる。DOVEクルーは、まずはモルジブでの出港。クリスタルブルーの美しい海にパーフェクトブレイク、魚も豊富でダイビングとしても盛んなところだった。数年前、堀口鉉気からスイムフィンのホルダーの付いたウェットを作って欲しいとのオーダーがあり、ファクトリースタッフは不思議な思いで作っていた。そしてビッグウェーブに挑むライディングショットがこの秋に掲載され、その堀口が必要としていた事が明らかになった。ハードコアサーフィンの真髄とも言える程の波が日本にある事を証明し、又、チームの歩むべきひとつの道がそこに印されていた。96ʼハンティントンの世界選手権メンズで、牧野優介がプロを相手に27位となった。また、NSA全日本選手権のジュニアクラスで、大野仙雅が優勝した。

CELESTE 号。ダイビングでも有名なビューティフルロケーションのモルジブ。ポイントブレイクが点在する波を追いかけての船上生活は格別だった。

ハルカのジャイアントウェーブをドロップする堀口鉉気。自身の庭とも言える場所。Photo: Naoya Kimoto

1997

この年の4月下旬、誰も予想をもしなかった台風1号が日本の南海上から突然秋のようなコースをとって北上し東へ抜け、DOVE創設から戸倉が愛してやまないスポット酒匂川河口に、思ってもみないライダブルなタイフーンスウェルが到来した。戸倉率いるダブライダーたちも集結し、東ウネリが相模湾に入り出すと必ずチェックするという思いを持ったサーファーらとのセッションを数日間に渡って春とは思えない最高なひと時を満喫した。そして5月に、初のメンタワ諸島へのボートリップがスタート。極上のクラシックブレイクが点在する島々、ライダー達は歓喜と共に果敢にチャージした。
またこの年に福地孝行が、念願のJPSAグランドチャンピオンの栄冠を獲得した。
NSA全日本選手権のボーイズクラスで伊豆出身の進士剛光が優勝し、メンクラスで千葉(鴨川)出身の牧野優介も優勝。そして更にレディースクラスも仙台出身の佐々木柾由美が優勝した。

キャプション:この年の5月、初のメンタワイ諸島へボートトリップ。無数に点在するパーフェクトウェーブがある、まさにパラダイス天国だった。

ハワイ・バックドア、パダンパダン、そしてこの波に人生を賭ける高津佐浩行。普段は温厚な性格だが見た目とは裏腹に、ビッグサイズの底掘れするチューブの波には顔色変えず果敢にチャージする。Photo: Naoya Kimoto

1998

この年、冬の極寒・北海道でもサーフィン出来るウェットデザインであり、常に腕周りの動きを第一に考え、コイルドライジッパーを使用したマニアックモデルが、テストにテストを重ねた末に生み出された。
この年、戸倉率いるシークエンスクルー達は、サーフィンワールド誌で特集された”The Garden Route”未知のサーフスポットを発見する旅。と言うタイトルで、日本から長時間のフライトを経て南アフリカ南東部のコーストラインを目指した。そこには、昔からガーデンルートと呼ばれる道沿いの美しい自然に囲まれたパラダイスだった。しかも嬉しいことに南極から発生するバージンウェーブが至る所でひっそりとブレイクしていた。
NSA全日本選手権のボーイズクラスで渡辺将人が優勝し、ジュニアクラスで進士剛光が2年連続の優勝を果たした。

極寒の地でもアグレッシブな動きが出来るように開発されたモデル名はマニアックモデル。腕の動きを損なわないデザインのコイルドライジッパーを採用することで、より快適にサーフすることを実現した。

サウスアフリカ・J-Bayのカバーショットを決めた福地孝行。昨年、念願のJPSAグランドチャンピオンに輝き、今もっともノリに乗っているプロサーファーと絶賛されていた。Photo: Hidenori Nakajima

1999

NSA全日本選手権のジュニアクラスで、渡辺将人が優勝し、昨年に続く2連覇を成し遂げた。パイプラインなどのリーフにヒットするビッグウェ−ブにチャージする脇田貴之の必需品であるヘルメット。写真では解り辛いが前頭部が破損しており、彼曰くこのお陰で今尚もチャージし続けられるんですと言っていた。

パイプラインなどのリーフにヒットするビッグウェ-ブにチャージする脇田貴之の必需品であるヘルメット。写真では解り辛いが前頭部が破損しており、彼曰くこのお陰で今尚もチャージし続けられるんですと言っていた。

シャローリーフにヒットするビッグで危険な波にトレードマークのヘルメットを使用する脇田。この年のサーフィンワールド誌・DOVE広告に見開きで登場した、パイプアタックのショット。Photo: naoya Kimoto

2000

この年はボートトリップイヤーで、4月のモルジブから立て続けにメンタワイ、そして初のマダカスカルツアーとインド洋を横断したかのようなトリップだった。DOVEのネーミング通り、戸倉康守が描いていたボートで世界中をWAVEサーチすることが実現し、未知なる地・島へと航海し続ける。

HOONOOS号/ロケーション:マダカスカル島 Jun/ 2000

SONS SOUCI号/ロケーション:メンタワイ諸島 May/ 2000

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