日本初サーフィン中学部活動顧問就任について
山本 博也です。
今回は、日本初中学サーフィン部活動顧問就任した事について話していきたいと思います!
宮崎内の方は、新聞やテレビの露出が増えてきたため知ってると思いますが、海練が6月半ば過ぎからスタートしました。
さて、僕が何故抜擢されたかをまず話したいと思います。
僕は、青島海水浴場の目の前にある施設、”渚の交番”という場所で、年間常駐ライフガードとして5年間勤務していました。
日本では、ライフガードの年間雇用はほぼいなく、僕はパトロールや海水浴業務、青島ビーチパーク等業務主任をしていた。特に毎年の青島小学全校生徒にプール授業と、ライフセービングを教える事はとても楽しかった。
その中で分岐点だったのが学生へ海練だった。
何時も、職場の目の前の青島ビーチで、泳いだり、走ったり、ボードに乗ったりトレーニングをしていたが、ある日から子供達を呼び朝からトレーニングする日々が続いた。
学校前の朝練で、次々と保護者が連れてくる子供達を教えた。多い時は朝一から10人以上来ることもあった。
朝から元気にパドルアウトして、更に元気になって、学校にいく姿がとても嬉しかった。
内容は、走って泳いで、ボードにのりパドルしたり、波に乗ったり、とにかく海を好きになる様な事を一緒にしていた。
周りからは、有料でやる様に勧められていたがボランティアで2年以上やり続けた。
渚の交番をライフガードとして5年勤務していたころ、青島の宮司さんや、青島の会長さん、学校校長が”青島中学校サーフィン部”構想と、顧問への依頼を何度もしに来られた。
僕は、はじめ渚の交番という組織としてやる事を勧めたが、スタッフ内では経験がないことやリスクをとることができない事で、自分が個人として受ける形となった。
4月にはいり、コロナの影響で中学校が休校となり、スタートが5月半ばとなった。
サーフィン自粛もあり、ギリギリまで学校側と議論しながらも進めていき、ようやくプールからスタートさせることでサーフィン部活動がスタートした。
サーフィン部の影響で、去年新入生が6人だった事に比べ、12人も入部してくれた。
プールをみんなで綺麗に清掃して、ようやく水をはると、泳ぎと、レスキューの事などを教えていった。
時には体力テストや、陸上トレーニングをして基礎体力をあげることもした。
ようやくボードも、生徒全員分を揃える事が出来、海に入る前にボードパドル、コントロール、ドルフィンなどをプールで教えていき、先週ようやく、海でのデビューを果たせた。
7社も取材陣がきて、宮崎内では連日大きく取り上げられ注文を浴びている。
僕も取材される事が多くなったが、”安全に海を楽しんで、人を助けられるようなサーファーになって欲しい”と伝えている。
プロやオリンピックを目指す事を聞いてくる取材陣も多いが、とにかく海を楽しみ、長く付き合って欲しいし、そこを目指すのは、個人の自由だし、そうなったら素晴らしい事だと思う。
反対にサーフィン競技の厳しさも僕は知っているゆえ、視野を広くサーフィンと付き合って欲しい。
そして保護者も含め、お互いが守りあえる様なチームが出来た時、きっと素晴らしい体制ができ、この地をローカルサーファーがもっと盛り上れる未来を、僕はこの子達と一緒に作っていきたいと思う。
まだまだ機材や、ギアが不足しています。
必要がなくなったボードやウェットスーツ
、タッパーなどがあったら僕にコメントいただけたら嬉しくおもいます。
今年の秋ころには、大会を行いたいとも思ってます。
今揃えてるボードは、スポンジボードで中々勝てないし、個人のウェットスーツももってない子のほうが多いのです。
スタートしたての中学校サーフィン部、どうぞ応援よろしくお願いします。
山本博也