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2026.06.25 | DOVE HISTORY

1979年。
サーフィンワールドの取材で、DOVEチームの平塚ローカル青田と博道、そしてワールドの専属カメラマン畠山(ジッタ)に俺とドライバーの5人で九州日南を目指した旅だった。
当時の日南は、今ほど多くのサーファーが訪れる場所ではなかった。未知の波を求めて海岸線を走り回り、取材でありながら、それはまさにサーフィンそのものを楽しむ自由な旅だった。
この旅の最終目的は、静岡で開催されるJSO主催のプロ・アマ・コンテストに青田と博道が出場する為の旅でもあった。このコンテストの結果は、添田博道優勝、青田琢二準優勝、当時15歳の久我孝雄が3位に入り、DOVEチームの快進撃の始まりだった。

1979年 昭和54年、俺は30歳(三十路)日本のサーフカルチャーが急速に広がっていく時代、俺たちは、波を追いかけながら、その時代の真ん中にいた。
九州にたどり着き、この民宿「うず潮」の値段と雰囲気と立地条件に引き寄せられて、ここを拠点として動き回った。

DOVEの大きなロゴを付けたキャラバンが海沿いを走り回り、サーフポイントに現れること自体が広告で、ポイントに着けば、多くのサーファーがDOVE号を見つけて、「DOVEチームが来た!」「有名ライダーが居る!」「新しいウェットスーツだ!」そんな会話や声が聞ける時代だった。
ダブの看板を付けたキャラバンが海へ向かう、その姿そのものが、ブランドイメージを高め当時のサーファー達へのメッセージとなっていた。

博道は、1976年ハワイ、ハレイワで開催されたマーボーロイヤルのコンテストで、この時代のハワイを代表する世界のトップサーファーのデーン・ケアロハ、バテンス、マーク・リドル相手に4位入賞果たした。
そして、1978年ノースショア、サンセットビーチで開催されたプロトライアルで7位に入りワールドカップの出場権をも手にした。
この年には、全日本プロ選手権でも優勝を果たして、2位渡辺文好、3位青田琢二とDOVEチームは、上位を独占した。ちなみに、1978年は、日本プロサーフィン連盟(NPSA)が発足した「日本のプロサーフィン元年」とも言える年だ。博道はこの時代の波に乗り、フリーサーフィンは、ノースショアのワイメアからパイプラインのビッグウェーブまで乗りこなし、コンテストサーフィンでは、膝波でもリップする技術を持ち合わせて、日本のサーフィン史に残るサーファーとなった。

平塚ローカルを代表する誰もが認めるこの時代の日本のトップサーファーの1人で、独特のスタイルの持ち主。誰の言う事にも耳を傾けずに自分が作り上げたサーフィン道をひたすら走り続ける純粋で欲のないサーファー。
近所の河口が決まった時や台風スエルがヒットした波でのアクションやチューブの入りかたは、他の誰にも見えない波を待ち、その波と対話しながらテイクオフする姿はまさしく天才サーファーと言われる伝説そのものだった。

平塚ローカルであり当時のDOVEチームを代表する誰もが認めるこの時代の日本のトップサーファーだった2人。


1977年に四国のTSSCのファクトリーにエアーブラシの仕事で、カルフォルニアから来ていたドゥルーのエアブラシのサーフボードでのライディング。



当時、サーフィンワールド誌の取材写真は、すべてポジフィルム(リバーサルフィルム)で撮影されていた。
今のデジタル時代では想像もできないほど、緊張感のある仕事だった。現在のように撮ってすぐその場で確認することはできず、現像が仕上がるまで結果は誰にも分からない。
一本のフィルムで撮影できるのは36枚だけ。
特に水中カメラマンにとっては、一枚一枚が真剣勝負だった。
撮り終えれば、どれほど沖のポイントであっても泳いで岸まで戻り、フィルムを交換しなければならない。
「水中カメラマン・今は亡き畠山が、ポジフィルムで残した一枚。」








1979年、チームとして初めてサーフィンワールドの表紙を飾った添田博道。ライダーが表紙を飾ることは、本人にとって最高の名誉である。
しかし、俺たちメーカーにとっても、それは同じくらい大きな喜びだった。
共に全国を回り、ウェットスーツを作り、挑戦を続けてきた積み重ねが、一冊の表紙という形になった瞬間でもある。ライダーとメーカーが二人三脚で築き上げた歴史が、多くのサーファーに認められた証だった。

1975年から2015年までの40年間、DOVEライダーたちは182冊もの世界のサーフィン雑誌のカバーを飾ってきた。
当時、雑誌はサーフカルチャーの中心だった。一冊の表紙には、その時代の波やライダーたちの想い、そしてサーフィン文化そのものが刻まれている。
182冊という数字は、単なるカバーショットの数ではない。それは、日本、そして世界のサーフィン文化が雑誌によって育まれた時代を象徴する182の歴史であり、ライダーたちと共に歩み続けてきたDOVEの歴史そのものだ。
では、なぜDOVEライダーたちは182冊ものカバーショットを飾ることができたのか。
それは、一人のスター選手がいたからではない。ライダーたちが誰よりも海へ入り、波を追い続け、そして俺自身も日本はもとより世界中の海をライダーたちと共に旅し、秘境の波を追いかけ、同じ波に乗り続けてきたからだ。
メーカーとライダーが同じ目線でサーフィンと向き合い、海で感じたことをウェットスーツへと反映し、その積み重ねが多くの表紙となり、日本のサーフィン文化の歴史として刻まれていったのだと思う。
いつしかDOVEに憧れを抱くサーファーが増え、「いつかDOVEライダーになりたい」と自ら志願してくれるサーファーも少しずつ増えていった。
それは今も変わらない。こうして時代を超えて想いが受け継がれていることを、俺は本当にうれしく思っている。
やがて時代は変わり、雑誌は姿を消し、情報発信の舞台はインターネット、そしてSNSへと移っていった。正直に言えば、俺も最初はSNSというものに戸惑いがあった。しかし、時代が変わるなら、自分も変わらなければならない。そう思い、一歩踏み出した。
今ではSNSも、サーフカルチャーを伝え、人と人をつなぐ大切な場所になっている。伝える手段は変わっても、海への想いも、DOVEの想いも何ひとつ変わらない。
俺は今もライダーたちと同じ海に入り、同じ波に乗り続けている。そして、その想いを今はSNSを通して次の世代へ届けている。
雑誌もSNSも、あくまで伝える手段に過ぎない。
本当に伝えたいのは、海を愛する心であり、サーフカルチャーの魂だ。
時代は変わっても、波は変わらない。
だから俺は、これからも海に入り続ける。
