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2026.08.29 |

旅の達人 BLOG

1981年、サーフボードの歴史が変わった瞬間

—サーフアバウトと、日本へ持ち帰った最初のトライフィン —

日本にはまだ存在していなかった、新しいサーフィンビジネス、サーフィン専用のウエットスーツを作る会社をスタートして、7年目を迎えた1981年。

当時、世界のサーフィン業界は、目が離せないほどの猛スピードで進化と変化を続けていた。

その年の春、俺は、1974年にオーストラリアのノースナラビーンで始まった「サーフアバウト・コンテスト」を見学するため、現地へ向かった。

サーフアバウトは、単なるオーストラリアのサーフィン大会ではない。1970年代、プロサーフィンが一つのスポーツとして確立されていく過程を象徴する大会だった。

第1回大会は、1974年5月、シドニー北部のナラビーン周辺で開催された。賞金総額は7,000ドル。当時のサーフィン大会としては最大級であり、サーフィンでお金を稼ぐ時代の到来を告げるものだった。

それまでのサーフィンには、「自由」「カウンターカルチャー」「ライフスタイル」といった色が非常に強かった。そこに高額賞金、テレビ、スポンサー、そして多くの観客が入ってきた。

サーフアバウトは、プロサーフィンがこれからどこへ向かっていくのかを、はっきりと感じ取ることのできる大会だった。

まさに、サーフィンが「文化」から「プロスポーツ」へと変わり始めた瞬間を、目の前で見ているような気がした。

サーフアバウトは、ラジオやテレビとの結びつきも強かった。

「2SM」はシドニーの人気ラジオ局で、コカ・コーラとともに大会のスポンサーとなり、正式名称は「2SM/コカ・コーラ・サーフアバウト」。

1978年には、オーストラリアのテレビ局「Channel 9」で大会の模様が放送された。サーフィンが、海岸に集まったサーファーだけが見るものから、一般家庭でもテレビを通して楽しめるスポーツへと変わっていったのだ。

現在のWSLのテレビ中継へとつながる流れを、すでに1970年代につくり出していた。

サーフアバウトのもう一つの凄さは、波のよい場所へ大会そのものを移動させるという発想にあった。

1979年、シドニーで大会が進められていたが、ラウンド16を迎えたところで波が完全に小さくなってしまった。

「このままでは、テレビ番組としても大会としても成立しない」

そう判断した主催者は、残った16人の選手、役員、テレビクルーを6機の小型飛行機に乗せ、約600マイル離れた、波のあるベルズビーチへと移動させた。

大会の場所で波を待つのではなく、よい波に合わせて大会を動かす。サーフィン本来の考え方を最優先した、当時としては画期的な決断だった。

そして1981年4月の終わり頃、俺はノースナラビーンで開催されたサーフアバウトを、実際に見て、肌で感じることができた。

会場には、完璧なオーバーヘッドのグーフィーの波が立ち、世界のトップサーファーたちが、最先端の技を駆使してフロントサイド、バックサイドで競い合っていた。

選手はもちろん、観客、カメラマン、ジャッジ、役員、そのすべてが新鮮で斬新だった。目の前で起きていることの一つひとつに、目を見張った。

これほど大きなサーフィンとサーフボードの進化、その歴史が変わる瞬間を間近で見られるとは、夢にも思っていなかった。

サーフアバウトを見た後、俺はノースナラビーンにあるテリー・フィッツジェラルドの「HOT BUTTERED」の工場を見学に訪れた。

工場のラックには、完成したばかりの新品のトライフィンが何本か並んでいた。

その中から、長さと幅がちょうどよさそうな一本を手に取り、脇に抱えてみた。厚さ、レールの感触、重さ、そのすべてが驚くほどしっくりきた。

脳みそも心も、うれしくてたまらなかった。

「どうしても、このボードが欲しい。日本へ持って帰りたい」

そう思った俺は、そのボードを離さずに抱きしめたまま、近くにいたスタッフに単語を並べて必死に伝えた。

スタッフは、誰かに相談するためか、別の部屋へ入っていった。俺は、その間もボードを抱えたまま待っていた。

しばらくして戻ってきたスタッフは、ニコニコしながら「OK」と言い、梱包までしてくれた。

俺の熱い気持ちを分かってくれた瞬間だった。

そのサーフボードこそ、俺が日本へ初めて持ち帰った、最初のトライフィンだった。

日本へ戻った俺は、6月に『サーフィンクラシック』の取材と『ストーム・ライダース』の撮影のため、ニアス島へのサーフトリップに参加する予定になっていた。

そこで、持ち帰ったトライフィンを、仲間のサーフボードメーカーである「ロックダンス」「シークエンス」「ポセイドン」の工場へすぐに送り、ニアスでのテストライドに間に合わせることができた。

2SM/コカ・コーラ・サーフアバウトでは、こんなにも素晴らしいパンフレットを制作し、会場で無料配布していた。

当時のパンフレットと大会会場で購入した記念のシャツとキャップは、今も会社のミーティングルームに大切に飾ってある。

そして、この大会では、世界中のサーファーが最も注目する、サーフボードの歴史を変える出来事があった。

サーフアバウトの直前、ベルズビーチでは15フィートの大波の中でコンテストが開催され、サイモン・アンダーソンが、自ら開発した3フィンの「スラスター」で見事に優勝を果たしていた。

その直後、サイモンの地元であるノースナラビーンで開催されたサーフアバウトでも、彼は優勝した。

オーバーヘッドのグーフィーの波でリップした後、ストールしてレールをつかみ、そのままバックサイドでチューブに入っていく。

そんなサイモンのライディングを目の前で見ることができた俺は、本当にラッキーだった。

さらにサイモンは、この年の12月に開催されたパイプライン・マスターズでも優勝した。

ベルズビーチ、サーフアバウト、そしてパイプライン・マスターズ。

1981年、サイモンは自ら開発したスラスターで三つの大きな大会を制し、トライフィンの性能を世界に証明した。

そして1982年の夏頃には、世界中のサーフボードメーカーが、次々とトライフィンの生産を始めた。1986年頃には、トライフィンがサーフボード市場をほぼ全面的に支配することになる。

この年、俺がオーストラリアで目にしたのは、世界のサーフィンとサーフボードの歴史が大きく変わっていく、まさにその瞬間だった。

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