1978年、日本プロサーフィン元年 ― 夢と革命、そしてダブの覚悟

1975年、日本サーフィン連盟(NSA)の中にプロ部門が誕生し、日本初のプロ制度がスタートしていた。しかしNSAはアマチュアの組織であるため、どうしてもプロ側の立場にいる俺たち数人は動きづらさを感じていた。俺を除けば皆プロコンテストの優勝者で、当然ながら世界のサーフシーンを見ていた。何よりも誰よりもサーフィンを愛し、波が上がれば必ず海に入る連中だった。

そんな俺たち仲間の希望は、サーファー自身が業界を作り上げ、本物のプロサーファーを育て、自信を持たせ、世界に近づくサーファーを育てること。そして何よりも、カッコいい業界にしたいという思いに溢れていた。

しかしその思いとは裏腹に、NSAの理事の中にはどうしても埋められない溝があり、話にならない出来事も次々に起こっていた。プロがアマチュア組織の中で活動することの難しさが明確になり、1978年4月、日本プロサーフィン連盟(NPSA)が川井幹雄、小川秀之、小室正則、出川三千男、阿部川芳夫、小林正明らを発起人として結成されていた。

その記念すべき第1回ジャパンカップ・サーフィンコンテストは、6月3日・4日に辻堂海岸で開催されていた。

会場には、ジャパンカップの名とスポンサー名が大書きされたコマーシャルボードが掲げられ、プロコンテストならではの雰囲気を大いに盛り上げていた。

俺はNSA時代からのジャッジ経験を生かし、今回の大会からはプロジャッジ委員としてこの組織を盛り上げていくことを決めていた。今年発足したNPSAは、4月にプロサーファーになるための初のプロトライアルを、俺の地元・花水で行っていたが、俺は落ちていた。

それまでNSA時代のプロコンテストやJSO(日本サーフィン協会)のプロコンテストで賞金を獲得した選手は、自動的にプロ資格を認定されていた。俺にとってコンテストは、決められた時間内で波を取り合い、勝ち負けを競うものだった。正直、得意でも好きでもなかった。

それでも、これから始まるプロツアーの会場は、トッププロサーファーの新しい技、業界の動き、そして全国から集まる仲間たちに会える最高の場所だと分かっていた。ビジネスを始めて4年目を迎えていた俺にとって、この空間は外せない場所だった。だからこそ、ジャッジという立場でこの組織に協力することが、自分にとってベストであり、自然な選択だった。

この記念すべき大会で優勝していたのは、リノ・アベリアだった。 ハワイ・オアフ島出身で、1975年スミノフ・ワールドプロ・アマで優勝していたサーファーだった。70年代前半のノースショアを代表する存在として高い評価を受けており、この大会の優勝賞金100万円を手にしていた。

また、この大会のために来日していたマーク・リチャーズが、何かの縁で会社に来てウェットスーツをオーダーしてくれていた。彼はそのウェットスーツをとても気に入っていた。今大会では3位だったが、マーク・リチャーズは70年代前半からコンペティターとして活躍しており、1979年以降プロ世界選手権(IPS)を初制覇し、1982年まで4連覇を成し遂げていた。ツインフィンを武器にした革命的なスタイルで、時代を変えていたサーファーの一人だった。


1979年、ハワイの仲間からハレイワ・インターナショナル・コンテストのゼッケン協賛の依頼があり、ぜひジャッジ方法などを勉強させてほしいと頼んでいた。話はうまく進み、ジャッジ台から大会の様子を見ながら学ぶことができていた。

この経験は、その後の自分にとって大きな自信になっていた。その時、前年のジャパンカップで優勝していたリノ・アベリアが日本で着ていたのと同じジャンパーを着ていたのも、嬉しい出来事だった。

1978年。この大会をきっかけに、日本の本格的なプロサーフィンが幕を開けていた。賞金をかけて戦う舞台が整い、「サーフィンで生きる」という選択肢、そして「プロ」という職業意識が誕生していた瞬間だったと思っていた。

この大会をきっかけに、ダブがサポートしていた選手たちはプロ・アマチュアを問わず大活躍していた。その頃、ダブチームが結成されていた。勝つためだけではなく、日本のサーフィンを未来へ進めるために。ダブは単なるウェットスーツメーカー以上の存在として期待されていた。その後の歴史が、それを物語っていた。

大会会場の大きなコマーシャルボードの前で撮っていたダブチームの記念写真は、まさにその象徴だった。

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