1986年ペルー Olas de Peru(ペルーの波)/ サーフィン・ワールド
1986年春、キン(木本直哉)がノースショアで、知り合ったペルーのサーファーを訪ねて、1人で旅立つ計画を風の噂で聞き、日本の裏側に位置するペルーの波は、世界で1番長く乗れるグーフィーで有名なチカマのポイントがあることぐらいは知っていた。
が、あまりにも遠い世界だから眼中になかったけれど、キンが行ってる事を知った俺は、地球の裏側でサーフィンをする絶好のチャンスだと俺の身体のどこかに宿るサーフアドベンチャー精神にメラメラと火がついた。
即座にサーフィン・ワールドの編集長、故・磯辺隆史に連絡すると話は簡単に進み、俺と千葉公平、マメ増田と3人でキンの居るペルーへ行くことが決まった。
ロスから8時間のフライトで、夜にはリマの飛行場に到着する。イミグレは簡単に終わり、薄暗い通路を出口に向かって歩いているとサイモン&ガーファンクルのコンドルが飛んでいくの曲が流れてて、この場所と空間と温度と匂いにぴったしマッチしていたのは感動して、今でも忘れられない。
キンと無事に合流、空港を一歩出たら機関銃を持ったアーミーの姿を見て、緊張感がただよった。
翌朝リマのホテルからほど近いポイントに連れていかれた景色は今までに見たことがないまさしく地球の裏側の景色だった。ここが初めてペルーでサーフィンした場所だ。圧倒されたなぁ・・・
ここはリマから一番近いポイントなので、夕方にはペルビアン(ローカル)サーファーで賑わっていた。
リマから50分位の町サンバルトロにキンが世話になってる、リッキーの家がある。この辺の家はコンクリートで、窓が小さく薄暗かった。砂漠の中の町だから水は常に買わなければならなくとても不自由だった。
サンバルトロの町には湾があり、スウェルの大きさと方向で、かなりのビックウェーブから腰位でも出来るレフトライトのポイントが何ヶ所かあるので、毎日サーフィンを楽しんだ。
このあたりは南極海から送り出されるフンボルト海流がながれ込むので海水は冷たくて、3ミリジャージのフルスーツにブーツが必要だった。
サン・バルトロは港町なので、新鮮な魚介類が豊富で、獲れた魚はペルー式に、焼く、炒める、煮る、特に貝汁、おじやとか魚と野菜の煮込みは、サーフィンした後のペコペコの腹を満たすのには、とてもヘルシーで美味しく日本人の俺達の口にあっていた。
なんか最初からあまり調子の上がらないビートルだったから嫌な予感がしたんだけどね。やっぱりトラブル・・・
リッキーの仲間のペルビアンサーファー、週末になると、どこからとなく夜な夜な人が集まり、砂漠の中の港町で、ウダウダ朝までコースのパーティが始まるんだ。
この日は、サン・バルトロから車で3時間走り船着き場に着き、ボートに乗って30分の場所にある、シークレットの島にサーフアタック。丁度、先に来ていた3人のペルビアンサーファーは、帰りぎわボートの上からいきなり島めがけて、ライフル銃でバキュンバキュンと遊びだした。恐ろしかったなぁ・・・
ペルーはグーフィーのポイントが多かったので、久々にパーフェクトにブレイクしているレギュラーの波で楽しめた。ボトムターンから、アップスーンダウンして、ちょろっと波に包まれる時もあるんだよ。
バックに薄っすら見えるのは、南アメリカ大陸のアンデス山脈だよ、緑が無い荒々しい石と砂の島。ペリカン、アザラシの鳴き声が聞こえる島に回り込んで入ってくるパーフェクトなライトの波は、ピークから最後まで乗りきればかなりの距離はある。
西日の当たる時間帯はここでしか味わえない景色だ。本当にすごい色の世界だよ。
ミーティングの結果チカマに行く事が決定した。リマから夜行バスに乗り一直線に北に向け走るパンアメリカンハイウェイ、何たってこのバスはエンジン音を最大限にして時速150キロでぶっ飛んで行くのだ。
道路は、ところどころに大きな穴ボコがあり、シートから飛び跳ねるたびに目が覚めて、やっと眠りに着くとまた起こされる。今度気がつくと警察官がバスに乗り込んで来てパスポートのチェックにきたりとゆっくりしてる場合では無かった。中々一筋縄ではいかない地球の裏側。
トルヒーヨの街はヨーロッパ調でなかなかだった。
ロサンゼルスで、リマ行き飛行機に乗り遅れた中シャン。幸いにもリマの実家に帰る大学生と知り合い次の日一緒にリマの飛行場までは来たが、誰も居ない事を知り途方にくれてたら、大学生がとりあえず家に来たらと言われ彼の実家に泊まらせてもらい、やっとのことサンバルトロのリッキーの家にたどり着いた。
トルヒーヨから1時間タクシーでチカマの湾の1番奥で降りる。
波は小さく、砂浜は冷たくてかたい、チカマローカルの1人が随分遠くに見える岬を指差し、あそこまで行けば波はこの倍はあると言われ、皆んなで長い浜辺を歩き、丘に登り又下りやっとの思いで、長ーい長ーいチカマのレフトの先端にたどり着いた。しかし、風はオンショアだった為、雄大な景色を満喫しながら、宿オンブレに帰って来た。
チカマの波はセットで肩位のサイズだったけれど、規則正しくレフトにブレイクするいい波でピークからテイクオフすると500メーターは乗れるんだよ。その後はビーチに上がり、冷たい砂浜を20分位雄大なチカマの景色を満喫しながらピークに戻る、今までに経験した事が無い新しいサーフィンだった。
結局、チカマのベストウェーブには恵まれず、日が沈む頃からチカマのローカルサーファーが集まりだし、俺達とのナイトセッションの始まりだ!サッルー!(乾杯)とパーティが始まりセルベッサ(ビール)とソヴィーノ(ワイン)とピスコサワー(ブランデー)で、波がなくても毎日最高にハッピーに暮らせた。
チカマの宿オンブレのレストラン、この宿の娘さんマリアは初めから変なハポネス(日本人)のキンを相当に気に入ってた様子だった。
朝イチのサーフィンが終わり、ワンチャコと言う港町にランチを食べに行く、そこはセビーチェ(タコ、イカ、白身魚)のマリネの発祥地らしく、俺は白のソヴイーノ(ワイン)に白身魚だけのセビーチェばかり食べていた。うまかったなぁ〜
昔は、トトラと言う葦(あし)で作られた小舟で漁をしてたんだって。俺が訪れたこの頃は、何にも無いただの小さな港町だったけれど、今では、ホテル、レストラン、カフェ、土産屋、レンタルサーフボート 屋とか、サーフレッスンまである観光地になっているらしい。
ペルーの波は、南極から送り出すスゥエルで、ビックウェーブから腰サイズまで、ちょっと水は冷たいが、贅沢を言わなければ毎日サーフィンが出来る環境だった。リッキーを筆頭にチァロやマグーのペルビアンサーファーはハワイ、ノースショアの波を経験しており、地元の数あるポイントでは2、3人のホットな若いサーファーを必ず見かけた。
ペルビアンサーファーのレベルの高さには驚かされた。2週間の俺の地球の裏側のサーフトリップは終わり、リマではテロが頻繁にあったり、マフィアと警察との抗争など、とても危険な場所の旅だったけれど、ローカルサーファーのリッキーの助けと、何と言ってもキンにはいつも通り世話をしてもらい最高の思い出のペルーの旅となった。
1年後、俺達を訪ね日本に来た、リッキーとパブロ、吉浜での花火大会で湘南でウダウダしていたら、和歌山の河口に波がヒットしてるとの情報が入った。観光をしながら現地に向かった。
今年、伊良湖であったISA WORLD SURFING GAMESで3位にルーカ・メシナスというペルー人が入賞した。この時のペルー人のサーフィンのポテンシャルの高さを感じていたことを思い出した。