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2020.01.13 | Mentawai

旅の達人 BLOG

1997年、はじめてのメンタワイ・Mentawai

極上の波を探しに、インドネシア・スマトラ島沖合いのメンタワイ諸島へ。
大小数百以上の島々には必ずと言っていいほど最高のサーフブレイクがあると、世界中のサーフジャンキー逹の密かな噂になっていた。このメンタワイのサーフィンの始まりは、1990年頃からはじまった。

カメラマンのキンは、昨年このメンタワイのトリップで相当いい思いをした様で、強力な誘いと好奇心旺盛の俺の気持ちとサーフィンワールドの取材と言う事で話はすぐ決まり、初メンタワイボートトリップのはじまりとなった。

大都会のジャカルタのネオンを浴びて一夜を過ごし、メンタワイ行きの船が待つパタンの空港に到着。小さな飛行場の外に出ると、待ち構えていたかのようにメンタワイのボートトリップのガイド会社サーフ・サンクチュアリーの連中が、サクサクと俺たちのサーフボードと荷物を車に積み込んだ。

出発すると屋根が変にとがった建物やノーズが上がっている派手なバスやバン、見た事が無い景色を見ながら到着したホテルは、とても立派でプールまであった。そのホテルのレストランで、夕方船が出るまでの時間潰しにガイド会社のオーナーと軽いミーティングをしながら軽食ともに酒を飲んで、かなりいい気持ちになり夕方船が待つ港に向かった。


待っていた船は、カタマラン(双胴船)で船名はウインド・チーターといい、船長のロッドは、サーファーではなかった。この船は綺麗だけれど、何しろベットが狭くてうなぎの寝床みたいだった。この船にこれから10日間、命を預けるのだ。

雲行きが怪しい夕方出港してから数時間後、大雨になって空から稲光りとともに雷の爆音が鳴り響き、巨大なうねりに荒れ狂う海に船は沈没するかもと思うほど、大揺れでとても座って居られなかった。うなぎの寝床に潜り込んで死んだふりをすると、誰かが甲板にしがみつきながら決死のゲロゲロをはじめた。すると皆んなでゲロ大会がはじまり、悪夢の様な1日目の夜となった。

次の日の朝、昨夜の船の揺れで二日酔い状態だった皆んな。

嵐は去って赤道直下のギラギラの太陽が照りつける大自然の緑の島々と真っ青な海に砕ける真っ白い波を見ながら体調は良くないけど、とても美しく見えた。

Rider:Yasumori Tokura
Rider: Yasumori Tokura
Rider: Yasumori Tokura

パタン港から1番近いポイントニャンニャンに着いたのは、大幅に遅れて昼近くになった。波はオーバーヘッドのレフトだったが潮が引き岩がむき出して見えていた。そんな時キンがまだ待った方がいいと言っても聞く耳を持たないマッチと脇田は船から飛び込んで行ってしまった。

ああ~そう言うキンも同類、直ぐにカメラを持って海にドボン。やはり潮が引き過ぎてサーフィン出来ず上がって来た。潮が上げてきたタイミングでレフトの波を満喫した。

Rider: Yasumori Tokura

ニャンニャンを後にしたウインド・チーターは、メンタワイの大海原を快適にクルーズ食事はこんな感じで満足できる船旅になる。

3、4日目あたりにテレスコープと言うレフトのポイントに近づくと、珍しく船が一艘停泊していてビックリした。天気はいつ雨が降り出すか怪しい雰囲気だった。もっと驚いたのは、そこにいたサーファーは何とジェリーロペスとピーターマッケイブとデリックダーナーだった。

その船は、グレーに薄汚れた鉄で出来た船で、確かこの後クイックシルバーが買い取り派手なペイントに変え、インデストレーラーと名付け世界中のサーフポイントと海洋研究に使われたようだ。

この後インデストレーラーは、4回新しくなり、ジェトスキーを積み、ヘリポートまで付く豪華船になりメンタワイの王者として君臨した。ちなみにジェリーロペスは、パタンの空港からヘリコプターでこの船に乗り込む待遇になっていた。

それとデリックダーナーは、ノースショアーのレジェンドビッグウェーバーで今はダブウェットスーツを愛用してくれている。

マカロニでは天気も風も波のサイズもとても乗り易くピークからプルアウトまで壁がずーっと張っていて、全員クタクタになるまでサーフィンをした後近くの静かな湾の中での夕日を浴びながらのビンタンビールのセッションは、今でも忘れられない思い出だ。

船から見るマカロニ

ある朝、アンカーを下ろす音で目が覚めて外に出てみると機械で作ったように正確にブレイクしているレフトの波が目の前に現れた。他に一隻の船が止まっていて、数名のサーファーがサーフィンをしていた。ポイントの名前は、マカロニといいメンタワイではメジャーポイントだ。現在ここは混雑が激しく、船は予約制になっている。

Rider: Norihiko Nakayama
Rider:Takayuki Wakita
Rider: Yasumori Tokura

俺の横の男は、寺内崇と言って、サーフィンワールドの編集者で、このボードトリップの取材で一緒について来ていた。もしもサーフィンワールドが潰れてなかったら編集長になるはずだった人物なのだ。寺内とは昨年の今頃NALUと言う雑誌の取材でモロッコに一緒に行ってきた。

寺内と俺

ボードトリップは、ポイントからポイントまでの移動が長い時は、暇つぶしと夜用のつまみの為釣りは欠かせない。

ボードトリップの醍醐味は、遠いポイントまでのパドリングはなくこのディンギーと言う小さな船で送り迎えしてくれる。

人の居ない極上の波に乗る為、キンと船長のロッドはかなりの緊張感溢れた会話と言うより口論を良くしていた。ロッドはサーファーじゃないので、スエルの向きや風向きを考えずに決まったルートのポイントに行きたがる。ところがどっこいキンは、昨年もここに来てるし、波に対する知識と勘と経験と口は誰よりも飛び抜けている。そのおかげで毎日毎日貸し切りの極上の波でサーフィンを楽しめていた。

旅も終盤に近づいて、ニャンニャンから1番遠いポイントで、皆んなが期待していたサンダースに向かった。このポイントは本来ならレフトなんだけれど風が悪くサーフ不能。そこでキンの一言で岬の裏側に移動することにした。するとそこには、面ツルの4~5フィートのレギュラーの波が、浅いコーラルリーフの上に炸裂していた。

俺はこのポイントで、今までに乗った事が無い波にテイクオフし、そして初めてのビッグバレルを経験できた。が、チューブの最後の出口でワイプアウト。ボードは真っ二つに折れ、浅いコーラルリーフと戦い、何とかカスリキズで生還。心臓が破裂する思いだった。この折れたボードは記念に大事に日本に持ち帰った。27年前の出来事で、いまだに波を追いかけて続けている俺だけれど、こんなデカイチューブにはこの時以来入っていない。

最高のチューブライディングだった Rider:Yasumori Tokura
二つに折れたボード。今でも大切に保管してある。

サンダースライト Rider:Yasumori Topkura
サンダースライト Rider:Yasumori Topkura
サンダースライト Rider:Takayuki Wakita
サンダースライト Rider:Takayuki Wakita 

このポイントから船で10分位移動したインサイドのポイントは、レギュラーの8フィートの波が現れた。あまりの危険過ぎる波にライダー4人は、全員ウェットにヘルメットで身を固め、リスクが伴う波に狂気のドロップをした。このライダー達を誇りに思う。このポイントはバージンウェーブで、ポイント名がなかった為、ラインナップいるライダーのヘルメットがチョコボールに見えたので、ポイント名チョコボールと名付けた。

チョコボール Rider: Norihiko Nakayama

あっと言うまの10日間。毎日貸し切り状態のサーフィンとリスクのある波に挑み狭いボードの生活もキンの最高のナビゲートと一生もんの記念になる写真まで残せた。なんといっても我らがDOVEチームのライダー達、船に戻れば馬鹿騒ぎと大笑いの毎日、波があれば真剣にすさまじいドロップするテクニックを持っていて、見ている俺は感動と感激と感謝の気持ちでいっぱいだった。この初メンタワイの年から俺はメンタワイに10年以上通い、毎年の行事になりメンタワイにのめり込んでいった。ボートが押し寄せ、ランドにもキャンプができはじめ、大混雑しはじめるまでは・・・。

最高のDOVEチームライダー
楽しませてくれた。ウインドチーターありがとう!
今でも鮮明に覚えている気持ちいいライディング。

大袈裟は無くて、無事パタンの港に到着して、パタンの街並みを通り、歴史の残る初メンタワイのボードトリップから無事生還出来た我々の記念写真。

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