2020.07.29 | DOVEライダー ブログ/JPSA
お久しぶりです。
Dove surfing wetsuitsライダーの山本博也です。
皆様は、どうお過ごしでしょうか?
今日は、僕がお世話になっている「氣サーフボード」との出逢いについてお話したいと思います。
氣サーフボードは、徳島在住のビッグウェーバー”櫛本”さんによりシェープされており、大波ようのGUNは有名です。
僕と氣サーフボード「GUN」との出逢いは、宮崎のカレンズポイントです。
2008年8月後半、台風がいいコースにはいった時、唐津ナンバーの黄色いハイエスをよく見かけるうになった。
当時、カレンズは伝説的なポイントで、若手ではいる人は少なかった。
毎日、僕同様張り付いてるので話を聞いてみることにした。
佐賀県・唐津からきた「西村栄治」という方で、「サーフ虎の穴」という唐津チームだ。
いつもと違うメンバーに、栄治さんがカレンズに入っただけで、僕の考え方が変わった。
カレンズポイントは、長い洗濯岩に沿ってわれる、早いブレイクで物凄く惚れあがるBIGWAVEポイントだ。
その為、早くtakeoffして、横に滑り切らないとぬけきれない。
当時、長い板(GUN)で入っている人はいなく、惚れ上がりの速さと、水の量に太刀打ち出来ずに、セットの波に乗り切れてる人はいなかった。
僕は、この西村栄治が持ち出した、GUNは今まで使ってきたGUNと別物の感じがした。
このGUNと西村栄治の魅力に気づいた僕は、8feetのカレンズセッションをした。
僕は7’6のセミGUNでいつも入っていた。(宮崎勢はこのサイズを好む傾向がある)
奥の巨大セットはなかなか誰も突っ込めないところを、栄治さんは、何度も奇妙なGUNで決めて行く。
海から上がり、思わず握手を求めた。今まであの波を決め切れる人がいなかったからだ。
そして、使っているGUNの説明を受けた。
今までハワイで見てきた物と別次元のものだった、重さ、太さ、形などがまるで異質。
”これならいける”と思えた。
次の日、10feet overの波が炸裂していた。波感覚が長いが、ワイルドなゲキボレ波がやってきていた。
その日は、待っても誰も来なかった。かなり危ない台風のコースだったので無理はしない様にと忠告を受けていたためだろう。
そのうち、地元のカメラマンと、『黄色いハイエース』の姿ががあったので、何かあったら通報してくれるだろうと甘い考えで一人で海に向かった。
結果、僕はセットをくらいリーシュコードが切れてしまった。
30分近く、凄い沖のカレントを食いながら必死に泳ぎ着いた。(糞が漏れるほど怖かった。)
命からがら、洗濯岩にたどり着いた時、三等分にわれていたボードを見て落胆した。
何故なら、この台風のうねりで、持っているボードを全て折ってしまったからだ。(10日で5本折った)
それを見ていた栄治さんは、駆けつけてくれた。
「お前ならもっといける」と言ってくれ、全くボードがない僕に”氣サーフボード”を1本譲ってやると言ってくれた。
次の日、宮崎初のリーフポイントでの大会「内海カップ」が開催された。
栄治さんチームは唐津から5時間かけて僕のGUNを運んでくれた。(いかつい人達が沢山きたので驚いた)
そして、僕は人生で初めてのコンテスト「優勝」をすることができた。
ローカル、ベテラン、若手、かなり濃ゆいメンツの中で優勝できたことはとても印象に残っている。
その後優勝することはもう無く、僕はコンテストから退いた。
その代わり、自分の動きを台風のうねりを追うことに集中し、唐津の「サーフ虎の穴チーム」と共に九州の波をハントしまくった。
僕の波乗りも変わり、ショートボードはやめ、授かった10’2GUNだけを3年間乗り続けた。
「1〜10feetの波を全てこのGUNでのれ」
「お前はこのGUNに乗れば何処までもいける」
と栄治さんに言われ3年間やり続け、僕は自分の夢だった波” JAWS”に3年で乗ることができた。
カレンズでの「西村栄治」さんとの出会いから始まった。
そして、サーフィンも人生も大きく変えてもらえた。
栄治さんは、唐津でバイオディーゼルで成功し、「唐津 beach club」も東の浜で経営されてます。
西九州では、色んなポイントでローカルと友好関係で、色んな方々を紹介してくれました。
今は、西村しょうま(長男)、西村イチゴ(JPSAプロ)をサーフィン修業のためオーストラリアで在学させている。
氣サーフボードに乗り早10年、栄治さんは何時迄も僕の憧れであり、僕の目標です。
次回は、カウアイ島での修業の日々を載せたいと思います。
山本博也