片道3日でたどり着いたジャングルパラダイス。
1981年6月の話。
SCを創刊したばかりの編集長の石井さんから連絡が入り、俺と市川( ポセイドンサーフボード)、と 蛸(シークエンスサーフボード)と添田(ソエダサーフボードジャパン)の4人は東京の事務所に呼び出された。そこでニアストリップの計画を聞かされた。目的は、新しく創刊されたサーフィン雑誌SC(サーフィンクラシック)の取材とサーフムービーストームライダーの撮影と説明された。
出発までかなりタイトな時間であった。そのパラダイスはインドネシア、スマトラ島の西側の島で、赤道直下のその辺りは、肌を焦がす危険な太陽やトロピカルポイズンがはびこっていてコレラ、マラリヤ、破傷風、狂犬病、デング熱、クタビーチなど道のホコリを吸っただけで高熱が出るクタフィーバーなどがあった。今でこそまだ若かった俺(今でこそ、もういい歳なので諦めがつくが。笑)は、こんな病気にひとつでもかかったらたまんないと思い、病院を探しまくったが近所には無く、有楽町まで行った覚えがある。ところが、全てに効く薬はムリと言われ(たしかに!笑) 結局は、注射一本打たれ(なんの病気に効くかわからなかったけれど…)なんかよくわからない薬ももらった。
それだけではなく、インドネシアのサーフポイントには、噛まれたら即座に死にいたる海蛇や、踏んだらヤバイ鬼ヒトデやサメとかエイなど・・・陸も海もちょっと間違えたら危険な場所だということを知っていた。
成田からシンガポール航空で、シンガポールに着いたのは、確か夕方でスマトラ島メダン空港行きは、次の日の朝早くだったので、空港内の待合室でごろ寝をし、1夜を過ごした。次の日、メダンに無事到着すると、生暖かいインドネシア独特の空気感と匂い、人、馬車、自転車、バイク、自動車などが道にあふれでて、街はかなり繁栄していて、夜になると日本では想像できない色とりどりの電球が街を照らし出し、活気に溢れていた。初めて味合う空気感だった。
メダン空港で見たニアス行き飛行機は、これ飛ぶのかな?と思う程ヘンテコな格好で、俺達を未知の世界へ連れ出してくれる、まさにマジカルミステリーツアーの始まりだった。無事ニアス空港に到着はしたが、ガタガタの滑走路が一本あるだけのただの原っぱみたいな飛行場だった。
グヌンシトリンの船着き場に着くまでの道のりは、バリ島より全然遅れてる町並みで汚かったなぁ。
船着き場に着いたが、何時間経っても出発する気配など無く、誰1人と文句も言わず、焦っている奴などいない。
どうやら船が人間と動物が満杯になったら出航するようだ。薄汚れた船内には人があふれてて、日本では、嗅いだ(味わった)事のない鼻に合わない嫌な匂いだった。牛も一緒だったなぁ。やっとの思いで狭い甲板を見つけて、外の新鮮な空気を吸ってホッとしていたら、船はゆっくり走り出し、陸が遠くに見える頃、インド洋独特の海がびたぁーっと、オイルフェイス(グラッシィ)になり、ゆっくり広ーい間隔のスウェル(うねり)で、ボロい船も気持ち良く優雅に揺れていた。
夕方になると今までの人生で見た事もない、黄金色の太陽の光が時間ごとに違う色に変わり、日没後の3~40分ぐらいは、見事な紫色で終わっていくと、空には一等星がチラホラ見え始め、アッと言う間に空がぜーんぶ星でうめつくされていた。多分この辺りの島は人が住んでいないから、工場も無いし、車も走ってないので空気が澄んでて、明るい星がいっぱいあって、華やかな気分になれた。この船旅の思い出が、これから先の俺のボートトリップに火をつけた。
テレクラダム(ポイントに1番近い村)に着いたのは、夜9時か10時頃。暗やみの中、チカチカ豆電球をつけながら怪しげなマイクロバスが港に迎えに来た。暗くて良く見えないが、窓も無い四角いコンクリートの家に連れていかれた。超蒸し暑かったけれど、疲れは頂点に達してたのだが、ぐっすりは眠れなかった。今日一日の出来事は、今まで経験した事がなく、スマトラ島の交通はすべてタイムマシンの様だった。
3日目の朝フラフラでたどり着いたジャングルパラダイス。高ーい椰子の木に囲まれてる湾の先に8フィートのレギュラーの波が規則正しくブレイクしてる景色は天国の様に見えた。理想郷 ラグンディ。
37年前のニアストリップは、俺の人生を変える程の衝撃と感動的な日々だった。気の合う仲間達と一緒に毎日毎日人のいない、完璧な形の波に肩が壊れるほど乗りまくり、大自然と一体になり、波の音を聞きながら眠りに着く。これこそ俺が求めていたサーフィンの本質と真髄ユートピア(理想郷)だった。最高のおもいでのジャンバラヤ、ロスメン!
不自由だけれどお金では買えないものがある。どんな大金を払っても買えない物がここにはあった。ここで俺はサーフィンに人生を奪われるほどの衝撃と感動をうけた。どんな高級ホテルよりも大自然と一体になれるこのロスメンは、俺にとって5つ星以上の環境だった。
見てくれる!
パームツリーバックに完璧なレギュラーの波で、サイズも充分あり、テイクオフエリアはメローで、深いボトムターンの後フェイスにサーフボードのレールが入ったら波のカーテンが降りて来て、スッポリとグリーンルームの中に入って行ける。それから外に出てカットバックかストールして、上手くいけばそこで又チューブが待っている。その後小さくなったフェイスをバンピングかトリミングしながら、ずーっと乗りつぐと波がすーっとシフトしてきて、俺達が泊まっている、ロスメンアマドリの玄関先まで、乗りついで行けるのだ。(写真手前の小さい波がロスメン目の前)こんな夢の様なサーフィンができる。
なんて気持ち良いポイントなんだろう。そう思ったことが、ついこの間のことのように感じる。
この年の春、俺がオーストラリアから初めて日本に持ち込んだトライフィンのテンプレットで作ったボートを、パーフェクトウェーブでテストするヒロミチは、充分な手応えがあったと思う。手前で巻かれているのは俺。このポイントはチューブになるのに深いので、リーフにヒットしないで、思いっきり突っ込む事が出来たのでもの凄く楽しかった。
2004年12月に起きたスマトラ島沖地震によりニアス島も甚大な被害を受け、ラグンデイの湾も地形が変わり波質まで変わってしまった、もうこの波の姿は見られなくなった。とても悲しい。
いまでもこの景色は、忘れられない・・・
心と身体と頭を揺さぶる圧倒的な波と調和した大自然の景色が目に焼き付いて離れない。
毎日毎日朝から晩までこんな波だったらどうする?
肩が回る限りパドリング、乗る波、乗る波、全部パーフェクト!頭がおかしくなりそうだったよ。笑
この景色の中でのサーフィン!
パームツリーと波と空、この湾(ラグンディ)に入ってくる波は規則正しく、リズム良く、一日中風も無く、俺達グループ以外、4人位のサーファーだから、今では到底考えられない環境。まさにパラダイスだった。
ここのポイントの特徴は、小さい岬の先端に小ぶりのパスがあるので、そこからポチァっとパドルアウトすると波をかぶらず、楽々すーっとポイントのピークに行けるのだ。ある日ヒロミチがピークに着いたとたんの出来事であった。
見るからに形が良いジャングルビッグセットとにテイクオフした。少したって俺が波待ちしてる所にニコニコ顔で戻ってきた。しかし、びっくり仰天!!!チューブライドしていたはずのヒロミチの髪の毛は一切濡れていなかった。俺達は毎日何かにとりつかれた様にサーフィンに没頭した。
この時期サイモン・アンダーソン自身が、発案シェィプしたサーフボートでのスラスター(トライフィン)で、オーストラリアのベルズビーチで、歴史的に残る10フィートの波でのコンテストで優勝し、その後パイプラインマスターズでの優勝は、シングルフィンとツインフィンの時代から急加速でトライフィンに変わる歴史的な時期だった。
写真の左端にあるスラスターは、この時サーフィン界で大注目のサイモン・アンダーソンがシェィプした超レアなサーフボートをオージーのアルというサーファーが持って来ていた。市川と蛸とヒロミチはシェィパーだからその本物のボートに触れて凄い勉強になったと思う。
これこそが旅の高度なコミュニケーションだね。
この記事を書いている最中の5月8日。
WAVEプールでWSLのコンテストが行われ、その表彰式になぜかスラスターを持ったサイモン・アンダーソンが現れた。ベストエアーのジョンジョンにそのボードを手渡した。その映像を見ていた俺は、37年前のシングルフィンとツインフィンの時代からトライフィンへと移り変わった歴史を思い出し、またWAVEプールという新しい時代の始まりを目の当たりにした。
サイモン・アンダーソンは歴史の変わり目にかかわる人物であると俺は感じた。
今、WSLの選手たちは100%トライフィンを使用している。
その当時サイモン・アンダーソンは、パテントを取らなかった理由を「ビールが飲めればそれでいい」と言っていた、それを聞いた俺は彼をリスペクトした。
電気、水道、ガスなど一切無いジャングルでの生活が出来たのは、最高の仲間とこの空気と時間帯で変化する波と景色だった。現代文明からかけ離れたとても不自由な生活を楽しめるような自分でありたい。俺は、日本で生活をしていると、なんの不自由も無く、ぬるま湯に浸かっている自分がイヤになる時がある。だから、今でも俺はわざわざへんぴで田舎の不自由なサーフポイントへ旅立つのだ。もちろんそこには、必ず人のいない最高の波があるから。それが俺のサーフィンスタイルになっている。
ローカルに誘われ丘の上の集落へ行ってみたけれど、この頃はまったく波にしか興味がなかったのか、すぐにロスメンへ戻った記憶がある。ここは因みにジャンピングストーンという石がある村。
石井さんと始めて会ったのは、76年の春かな。
サーフィン専門の雑誌を作るという感じで現れたのが最初だった。インテリ風で気難しそうで、塩の匂いがしない、俺の仲間にはいない人種だった。
それでも石井さんの話は衝撃的で、共感した。
丁度1年前俺は、ダブサーフィンウェトスーツという会社を作ったので、まだ始まったばかりのこの業界の未来の展望と道筋をつけるには、ちゃんとした雑誌の力が必要な時だった。石井さんは、シティーボーイで、食べ物にもうるさく、血液型も変わっていたから、このジャングルには適さないかと思ったけれど、さすがサバイバルしていた。
良く考えたが俺は随分と石井さんには世話になり、共に歩み成長して来たと思う。70年代後半、冬ノースショア、サンセットビーチで何かの大会の時現れた石井さんの格好は、革靴に革の手提げカバンにスーツ姿というのは流石に浮いていた。それでもノースショアの重鎮や一流のカメラマンやサーファー達とコミニケーションをとり、世界を目指していた。SC創刊に向けたこのセンセーショナルなニアストリップのメンバーにダブチームの市川、蛸、添田と俺を誘ってくれた事は、今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。
コンテストサーフィン以外に神秘的な美しさと人の少ないポイント探しの旅に出るサーフトリップの第一歩であった。またこの記事をきっかけにSCファンのサーファーの間では、ニアスが流行りだし、世界中からもサーファーが押し寄せ、7〜8年後には残念ながらこの景色は変わってしまい、湾の周りにはロスメンが立ち並んでしまった。
このトリップでの経験でいまだに活かされている事がいっぱいある。
まずは健康第一何でも食べて良く眠ること。
あと、今回ヒロミチがチューブに入って出て来たら、ドルフィンを失敗したサーファーのボードのテールが目の上辺りに直撃したんだけれど、たまたまこの時俺は、ストームライダーの撮影で来ていたカメラマンのディクさんと一緒にボートに乗っていたので、顔中血だらけでボートに近寄って来たヒロミチがどう?って聞かれ、本当はかなりひどかったけれど、大丈夫だよー!って言ってあげたんだよね。そう言ってあげる事が安心するんだよ。これ大事だから、覚えておいて。
ある時メンタワイのボートトリップで肩位の波で、焦って1番で入って行った仲間が、即おでこに自分のボートが当たり、パックリ切れたのを見て、周りでヤバイヤバイなんて言うから、その男は失神してたよ。ちなみにヒロミチは幅広く4針縫って顔中腫れていたが、ここには鏡が無いので良かったと思う。笑
旅にはトラブルが付いてくるから、不安にならず、怖がらず、焦らず、落ち着いて判断出来る仲間との旅が最高だと思う。
余談だか、この二アストリップの後、友達となったモーリスコール。のちに彼もストームライダーに出演していたをことを知り、縁を感じた。
このニアストリップに参加した4人は、言葉では決して言い表せない圧倒的な体験をした。
現在、石井さんは八丈島に移り住みサーフィンざんまいの日々を送っている。市川は富士川河口で、ビックバレルに入る姿を俺は今も見ている。蛸は千葉のビッグウェーブポイントは勿論、今年の1月にノースショアのサンセットで8~10フィートの波にチァージしている。ヒロミチは、波があれば湘南の1番良いポイントでサーフィンし、この間は南アフリカのジェフリーズベイで、サーフセッションしたり、いまだにJPSAの特別枠のコンテストで、川井さんと戦っている。
俺はニアストリップから、何かにとりつかれた様にバージンウェイヴを求めて、世界中を旅ってる。(笑)
あれから37年。
時代が変わり、時の流れが急激に変わろうが、いまだに俺達は、サーフィンを愛し、波に乗りまくる生活を続けている。
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