1977年サーフィンワールドの石井さんの仕掛けで、バリ島に日本人サーファー初のトリップに参加した小川さん。
以来、ウルワツの波に魅せられて、年に4~5回バリ島に通うバリフリークになり、エド小川と言う名前はバリ島のサーファーからビッグボスと呼ばれる存在になっていた。
小川さんは1969年に鎌倉七里ガ浜にドロップアウト・サーフボードを誕生させて、まだひよ子の様な日本のサーフィン業界を築き上げた人だ。俺は小川さんを見習い6年後にダブ・サーフィングウェットスーツを立ち上げた。ビジネス以上にサーフィン文化の受け入れと整理が必要な時代に小川さんは大活躍した。
その小川さんの誘いで、このコンテストのジャッジが出来たことは、俺にとって夢と希望を与えてくれる出来事だった。
1980年6月の初め、バリ島でインターナショナルのサーフィンコンテストが、バリ・サーフィンクラブとオム・クロージングのスポンサーで開催された。
選手たちは、自国のプラカードに並び 、オーストラリア、アメリカ、日本、ニュージーランド、ブラジル、バリから60人近い選手たちがエントリーしていた。日本からはDOVEライダーの添田博道、マメ増田が参戦した。
バリ島の伝統舞踊を若者たちがビーチで披露。
開会式のセレモニーは、ジャカルタから政府高官や将校など何百人も参加して行われ、クタビーチは人で溢れかえり、異様な盛り上がりを見せていた。
ブラスバンドの演奏が終わる頃、軍用機が現れたりで、国を挙げての規模感を痛感させられる開会式だった。
この頃のバリは、混雑を嫌うコアなサーファーが多かった。
一年中、島のどこかでビッグウェーブからスモールウェーブまでコンスタントにある波を楽しんでいた。
温暖な気候といつもニコニコ顔のフレンドリーなバリニーズのおかげで、まさしくここはサーファー天国だった。
次の日、大会はウルワツに決まり、役員と選手たちはクタからウルワツまで大移動をした。
これが80年のウルワツ、1,2軒しかないワルンまで行くのに車が通れる道路から降ろされ、徒歩で50分ほど農家の庭みたいな場所とか牛がいる牧場の中とか山を歩くとやっとのことでウルワツの波に会えるのだ。
この山道を重いサーフボードを持って歩くことは、俺達外人サーファーには無理だとわかっている事をバリニーズは知っていて、ちょっと金をだせば、若いバリニーズがサーフボードを担いで運ぶビジネスを発案した。
その名はキャリブーと呼び、ウルワツに通うサーファーは専属のキャリブーがいた。この頃の賢いキャリブーがサーフィンをやり始め、英語や日本語など覚え、バリファーストゼネレーションのサーファーとなった。
この時知り合ったバリニーズの何人かは、バリ島で全てのサーフィンビジネスで大成功し、このサーファーのほとんどが、日本人女性か他国の外国人女性と結婚し、プール付きなどの豪邸に住む程になった。
これが80年のウルワツ。
この時のウルワツは、毎日5〜6フィートの波がコンスタントにブレイクしていた。
毎日波がある為、コンテストは順調に進んだ。
決勝はテリー・フィズラルドとテリー・リチァードソン、オージー2人の戦い。
勝ったのは、ウルワツの波と調和したテリー・ フィズラルドだった。
コンテストのジャッジ風景、左から俺、真ん中がエド小川、そしてオージーのキム・ブラットレー。今は亡き二人。
このオージーが小川さんの知り合いで、バリと日本の架け橋になっていた。
このコンテストの期間中、バリニーズのサーファーが隠していたポイントのひとつ、チャングーが紹介された。ガタガタの田んぼ道は、ある時はアヒルの集団が道をふさぎ、ちょと走ると牛が邪魔し、車は牛のスピードで走り、やっとのことで広いビーチに到着する。そこはひと気の無いビーチと無数に広がるレギラーのポイントだった。
すぐに皆んなでワイワイと自分の好きな波を見つけてサーフィン。何本もチューブに入れて幸せな気分になれたなぁ・・・
今のチャングーから比べたら、おとぎ話みたいな出来事だった。
去年カチョのメキシカン料理屋へ行った時にもこのOM BALIのポスターがあった。
DRIFTERのジェイクのお店にもOMのTシャツが飾られてあった。
このコンテストは、バリ島で今でも伝説となっている。
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