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1980年オーストラリア-スタビーズ(80s Australia-Stubbies Surf Classic)

今から40年前1980年、日本は巨人の長嶋監督が辞任。王選手引退、ジョン・レノン銃殺事件。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない」「カラスの勝手でしょ」が流行語となっていた。

ダブサーフィングウェットスーツ誕生から6年が経っていた。
ウェットスーツの売り上げは好調で、ビジネスは順調に進んでいたが、俺は自分のビジネスがどうこうより、日本のサーフィン界の未来の為に何としても、世界のサーフシーン、サーフィン文化を知りたかった。なぜなら、相撲や柔道なら日本から日本語で発信出来るスポーツだけれど、さすがサーフィンは、英語の世界だからね。

この時代はハワイ、オーストラリア、カリフォルニアが、世界のサーフシーンをリードしていた。そんな時1979年にDOVEライダーの添田博道が、日本人で初めてオーストラリアのスタビーズクラッシックにエントリーし、17位に入賞し帰国する。ロレックスの自分の名前入りの腕時計をもらいそのコンテストの様子を聞いた俺は、来年は必ず観に行くと決めた。

俺達が泊まってたホテルは大会会場が一望出来る、最高な場所だった。

そして80年3月その時が来た。

初めてのオーストラリア、スタビーズクラッシックは見るもの全てが新鮮、斬新でカルチャーショクのなか、懸命にいろんなところを走り回ってみた。これからの日本のサーフシーンの事を考え、このコンテストを見て感じとり、沢山の勉強をした。

IPSの開幕戦として最初のポイントを決める重要な大会だけど、スタビーズクラッシックは、ゴールドコースト最大のお祭りでもある。選手も観客も運営している人達も大会を思いっきり楽しんでいる。

ブラジルチーム、リコデ-スーザ(左)とリカルド-ボカオ(右)

この頃は日本人サーファーとブラジリアンサーファーは、互角の戦いだったが、その数年後にはアッと言う間に状況は変わって、今ではブラジルのサーファーが世界で1番ワールドチャンピオンとなっている。

シェーン、ホラン(左)
左からカリフォルニアのダニーウォック、ブルースレイモンド、ポールニールセン

こんな見た目が綺麗で美味しいスイーツは初めて食べたよ。

毎日の様に食べてたなー。博道と今は亡き、茨城最強のコンペティターの手塚君。

ボカオのヒート。波をキャッチ。

このサーファーは、ブラジリアンのリカルド・ボカオと言う。
この男は、1年前に俺を訪ねて日本に立ち寄り、その後バリ島を経由して南アフリカからブラジルに帰るスケジュールだった。

ボカオが日本へ来たときの一枚。

その頃、俺はバリ島の波や文化に憧れてて、これはチャンスと思い、初めてのバリ島トリップはボカオと一緒だった。この時代にバリ島に行けた事は、これからの俺のサーフィンライフの未来が見えた気がした。

応援する俺と博道。

このバーレイヘッズは、波打ち際からほんの数十メートル離れたポイント。
芝生に座り直ぐ目の前で、世界のトップサーファーのライディングを眺めることができる、観客にとって最高のロケーションなんだ。


一番前に裸でいる男は、今は亡き大野薫と言って俺と同年代サーファーで、とても斬新的でカッコ良いスタイルをかもしだしていたサーファーだった。

観客もこんな感じで自由で、開放感いっぱいだった。スタビーズは、熱気に溢れて、プレイヤーも観客も大会を思い切り楽しんでいた。

クリスバーンと俺
ディックホール

サーフィンカメラマンのディックホールさん。
まさかこの1年後、ニアスでのストームライダーの撮影で、一緒になるなんて思いもしなかったよ。

年連続出場の博道は、バーレーでも顔が知れた人気者だった。

このヒートに勝てば本戦に出られる大事なヒートなんだ。博道は熱くなり、インサイドの岩にハイスピードで突っ込み、ボードを壊したがすぐにボードを変えて何とかメインランドに行けた。

スタビーズは、サーフィン・コンペテッションに新しいシステム「マン・オン・マン」による勝ち抜き戦で、名サーファーのピーター・ドルーインが提唱したシステムを他の大会に先がけて採用した。

スタビーズでは、毎晩の様にオープンパーティーが開かれ、選手は勿論ファンやサーフィン雑誌者やモデルみたいな派手な女性などで、昼間の大会同様に盛り上がっていた。

フレットヘミングスと俺。

IPSの創始者フレッド・ヘミングスと1976年IPS創立と同時に始まったスタビーズ。余談だが1982年ASPにそして2015年にWSLと世界のプロサーキットは変化している。

スタビーズでの日本人招待選手、添田、蛸、抱井、手塚
リカルドボカオと俺
ブラジリアンのリコ・デスーザとオタビオパシェコ
オーストラリアの看板的動物コアラ

スタビーズでは、市観光局がスポンサーとなり選手に無料で車を大会中貸し出してくれる素晴らしいサービスをしてくれている。

蛸とはホテルの部屋も一緒でずーっとサーフィンの話をしてて、蛸の波乗りに対する情熱が俺の心を揺さぶり、この旅からDOVEのライダーになる約束をした。

大会前に皆んなでサーフィンに行った。

レノックスヘッドでの俺

レノックスヘッドもロケーションと波は最高だった。

大会も無事ここまで進み、決勝戦はハワイのデーン・ケアロハとピーター・ハリスの戦いに。
勝ったのは、無名のバーレーロコのピーター・ハリスだった。この時は、バーレーはお祭り騒ぎだった。

唯一、木本直哉(以下キン)からもらった3枚の写真。

キンがバーレーヘッズの丘の上に寝泊りしていたテント

ある日、ホテルの部屋で誰かが口走った言葉は、「ねー若い日本人が1人で、昼間リュックを背中に手元にはカメラ、ある時はパンに水、ある時は、紙と鉛筆を持って、一日中大会会場を歩き回っている姿を見たことある?」みたいな言葉に全員が「ある!ある!」と答えるとまた誰かが、「アイツね世界的な有名なプロサーファーとかに気軽に話しかけているよ!」とか「そう言えば夜のパーティーにも必ず現れて、テーブルに並んだディナーをバクバク食べて、コンテストディレクターのビルボルマンと知り合いの様に仲良くしてて、とっても図々しい奴だ。」と話していた。

ある日、俺はその男にばったり会った。色々話したところ、大学の卒業論文で来ていて、この後シドニーまで行くと言ってた。テント生活をしてるのは知っていたので、不便だから俺の部屋に泊まれるよ、と誘ったが断られた。人の世話にはなりたくない感じだった。

この時から木本直哉は、キンと命名された。

なぜならいつも背中にリュックと手にはカメラやパンを持って歩き回り、その姿を見て、「アイツ二宮金二郎みたいだね。」とあだ名をつけた場所は、ここバーレーヘッズだったのだ。(薪を背負いながら読書する少年時代の姿で有名な二宮金次郎。読書に励む子供時代の銅像がどこの小学校の校庭に置かれ、児童の手本とされてた人物。自分の信じる道を全力で進む革命家だった。)ちなみに俺の小学校の校庭にもあったなぁ。

この数日後、キンがテントに戻ると、テントは潰され、カメラ機材を盗まれる羽目になる。こんな経験の積み重ねが、今のキンのスタイルを築き上げる原動力になっているのだと思う。

チームジャパンと

素晴らしい発見と人との出会いが、これから俺が目指すサーフィンとビジネスに大きな影響を与えてくれた。

この初めてのオーストラリア、スタビーズコンテストの旅はとても素晴らしい発見と出会いがあった。

千葉ローカルの蛸操と出会い、この時からDOVEライダーの約束をした。

木本直哉。
キンと言うあだ名をつけ、40年経った今でもキンだし、いまだにこの時と同じ様に世界中、波があるポイントに旅に出て、取材を続けている。この後、俺達DOVEチームライダーは、キンのおかげで、日本のクラッシックポイントから世界の有名なサーフポイントに旅立ち、日本のサーフィン界の歴史に残る写真を数多く残している。

あと、写真は無いがハワイアンチームで来ていたキャルビン前田と知り合いになり、この男には、82年の冬から、パイプラインの目の前の家を借りれることにつながった恩人だ。この家は日本人サーファーが、ノースショアの大波に挑む最前線となり、DOVE HOUSEと呼ばれ、キャルビンはDOVEチームライダーになり、我々のノースショアでのサーフィンを導いてくれる重要な男となった。

この時出会った、カメラマンのディックホールさんとは、81年ニアス、ストームライダーの撮影で一緒になり、衝撃的なニアスサーフトリップを映画化した。このニアストリップは、俺のブログ旅の達人のマジカルミステリーツアー・ニアスを見て欲しい。

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