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全てはサーフィンのために

1965年。
16歳の秋に吉浜で初めてのサーフィンをした。それは、それは、衝撃的だった。先生は高校の同級生の山本吉秀だった。それから、サーフィンと言う遊びに狂い、楽しみ、海のリズムに合わせて、地球のエネルギーを感じながら、知らない土地へ行きそこの波に乗り、ローカルと仲良くなり定期的にセッションするようになる。

サーフィンは言葉にならない程の凄さがあって、これから先の人生をサーフィンと離れず、より深く追求するには、サーフィンのビジネスをやるしか無いと思ったのは、サーフィンと知り合って10年が過ぎようとしてた25歳の時だった。

1965年湯河原の吉浜。この場所が俺のサーフィンの原点である。

 

湯河原にて山本吉秀、通称よっちゃん(左) と高校一年の秋。 俺がバスケットボール部を挫折したあと、サーフィンという真新しい遊びを教えてくれた恩人。

 

1969年初めて買った車。初代マツダボンゴ。まるでタイムマシンのように自由に波のある場所へ行けた。
こんな楽しい遊びがあったんだー!と興奮した。

 

サーフィンは、言葉にならないほどの凄さがある。

 

サーフィンという遊びに狂い楽しんだ。

 

平塚馬入川河口。地形が決まると気持ちいい最高の波乗りが楽しめる。

 

1969年20歳の時。馬入川でのサーフィンは色々な技ができてすごく上達した気持ちになれた。

 

1973年。俺より数年早くサーフィンでビジネスを始めた小川さんのファクトリー。七里ヶ浜のドロップアウトサーフボード。

 

ドロップアウトオーナー、故・小川さん。死ぬまでこの業界で、唯一お世話になった恩人。小川さんのいうことは文句一つ言わず従った。

 

1973年、憧れのハワイ、カルチャーショックの連続。

 

サーフィンと音楽とファッション

 

ダイヤモンドヘッドのクレーターの中での野外コンサート。痺れたなぁ。

 

ハワイはサーフィンの原点らしい重みを感じた。毎日が本当に勉強だった。

 

車も街並みも人もアロハでハワイはカッコ良すぎて、一気に大好きになった。

 

アパートの前でこれからサーフィンに出かけるよー

 

今日はこのサーフボードかな・・・

 

地方でやる大会もよく見に行って勉強した。たくさんの仲間にあえて、国内トリップは大好きだったし、今も変わらず大好きだ。

 

悩み抜いた結果、サーフボード作りはすでに仲間が何人かやっていたので、競合するのが嫌だった俺は、サーフィン専門のウェットスーツをつくる事だと考えた。

この時代、サーフィンのウェットスーツはダイビング屋がつくるダイビング用のウエットスーツか、海外からの輸入物しか無く、種類も

・フルスーツ
・ロングジョン
・ビーバーテール
・ショートジョン

くらいしかなかった。動きは悪いし、重いし、首や脇がすぐに擦れて痛くなり、冬のサーフィンは冷たい海水が遠慮なく身体に入り込んできた。

サーファーである俺は考えた。日本の四季に合わせて、快適に楽しくサーフィンが出来るウェットスーツを自分達の手でつくるしかない!と。

はっきりした目標とプランが出来上がり、直ぐに平塚市四ノ宮に小さな一軒家を借りた。1975年にサーフィン専門のウエットスーツ会社を設立。ダブ・サーフィング・ウェットスーツのはじまりだった。そこには日本のサーフィンの未来を見つめて、情熱と希望と夢が満ちあふれていた。

 

この2人の優れた職人に巡り会えて、日本で最初の最高のサーフィン専門のウェットスーツ作りが始まった。

 

まず最初に日本の四季を考え、日本人の体型とサーフィンの動きに合う様な型紙つくりからはじめた。

 

ミシンも揃えて、とにかく試作を作りまくった。

 

サーファーがサーファーのためにつくるウエットスーツ屋。

 

日本の四季に合わせて、快適にサーフィンを楽しめるウエットスーツを目指す。希望に満ち溢れていた。

 

夏に向けて遊び心を求めて思う存分楽しんだ。
DOVEのロゴマークも色々楽しんだよ

創業当時から変わらぬネイビーイエローの丸DOVEは、俺が一番好きなロゴだ。
Zipの位置も色々試したよ。
おしゃれで遊び心を忘れずデザインを楽しんだ。

 

そして、機能的なウェットスーツをつくるために、テスト出来る優秀なサーファーを集めた。小川秀之、小室正則、上杉俊二、青田琢二、添田博道らによって、湘南の波でのテストを繰り返し、フィードバックをもとに製品化した。

小川さんは、日本のコンテストの最初の頃からの入賞者でとても頭が良く、日本のサーフィン文化を作り上げた人だ。俺が唯一尊敬しついていったサーファー。

 

小室マーボーは、ロングボードの達人でハワイを最も愛したサーファーの一人。ノースショアのハレイワで23年間マーボロイヤルサーフィン大会を開催し、日本人クラスを設けてとても盛り上がりのある大会だった。

 

上杉は平塚出身のサーファーで、よく一緒にサーフィンをした仲間。すぐプロサーファーになり、シェイパーとしても活躍した。

 

西湘の河口が決まり、綺麗なチューブの時に見せる青田のライディングは、野生的で誰も真似ができないくらいスタイリッシュでカッコよかった。

 

添田は湘南の膝波からハワイのワイメアベイの20フィートの波までメイクし、コンテストでも数々の輝かしい戦歴を残している。当時日本のトップサーファーだった。

 

これがDOVEのテストライダーのはじまりだった。
と言う事は、日本のサーフィン界のウエットスーツのテストライダーの最初のライダー達ということになるのだと思う。

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