2023.07.02 |
俺がウエットスーツ屋をはじめた次の年、1976年はIPS(インターナショナル・プロフェッショナル・サーファーズ)が、ハワイのフレッド・ヘミングスとランディ・ラリックにより立ち上げられ、世界プロツアーが誕生した。日本でも賞金の懸かったコンテストが開催され、自由と楽しみを望んだフリーサーフィンの時代も変わり、ビジネスのスタイルも変わりはじめていた。
そして、この年日本で最初のサーフィン専門誌サーフィンワールドが創刊され、ものすごいスピードで何かが変わろうとしていた。この雑誌がまだ未熟な日本のサーフィン業界の発展に大きく貢献した事は間違いない。
波情報やSNSもない時代。サーフィンワールド誌は、写真と文字で情報と状況を伝えることを発信していた。これを読んだ地方のサーファー達の喜ぶ声を実際に聞いた時、この波に乗らなければと思った。
サーフィンワールドが日本で初めてバリ島でのプロサーファーツアーを企画した。その時、水中カメラマンが畠山(ジッタ)だった。これから先、雑誌に多く露出する為には、カメラマンとコミュニケーションを取り、より多くのDOVEライダーの写真を撮ってもらう代わりに最新のタートルスーツを畠山に着てもらうという契約を交わした。
それから、ウェットスーツメーカーの俺は大好きなサーフィンをしながら、ライダーやカメラマンと地方の良い波を探し、そこで波に乗り、写真を残し、いい写真があれば雑誌の特集になったりして、一石二鳥だった。
この時から雑誌の露出と広告は、とても重要だと気づき、とても神経を使った。サーフィン界の流れを見ながら、最高のイメージを作りだす事が大切な仕事だと気づいた。
サーフィンワールドの広告の為にハワイで大人気のサーファー、バテンス・カルヒオカラニとマーク・リデルを使った。
バテンスは、未来的なサーフテクニックでスイッチスタンスのオブザリップやスリーシックスティー(特にこの360度ターン)を初めて見せたサーファーでもあった。
カラパナのBGMで大ヒットしたサーフムービーの名作「メニークラシックモーメンツ」にマークリデルと共に出演し、独特のフリーサーフィンスタイルで人気を集めた。
四国のサーフボードファクトリーに、エアーブラシの仕事でカリフォルニアから来ていた、DREWさん。
ウェットスーツの提供は、テストライダーだけではなく、水中カメラマンにも提供し、価値ある美しい水中写真を撮ってもらい広告に使うことにした。
創業からの目標のひとつとしていたのは、日本の四季に合わせたウエットスーツをつくること。さらに動きやすく、安全に楽しいサーフィンが出来るような斬新なウェットスーツの開発を目指した。
まず初めにスタートしたのは、半袖半ズボンのタートルスーツと半袖長ズボンのシーガルスーツのテストだった。それを自ら必ずテストした。写真は海部川の河口。
現在では、シーガルという名称は世界中で使われているが、俺がが最初につけたネーミングだった。
1978年、NPSA(日本プロフェショナル・サーフィン・アソシエーション)が発足した。この組織には俺は深く関わっていた。 そして、第一回ジャパン・カップ・サーフィンコンテストが湘南辻堂海岸で開催された時のteam DOVEの広告写真。
創業からの目標の2つ目が、所属ライダーがコンペテションで勝つ事、そして世界を目指して頑張ることをサポートすることだった。
左から、カズヨシ、オオノ、アオタ、バテンス、ウエスギ、ワタナベフー、マメマスダ
この大会から俺はプロのジャッジに専念する事になる。俺がプロサーファーを諦めた話は、また今度しようと思う。
この年NPSA発足、初めて主催のジャパン・カップに出場の為に来日した。マーク・リチャーズにウェットスーツを提供した。
1979年 ブラジルから日本にサーフトリップに来ていた、リカルド・ボカオとオッタビオ・パチァーゴ。ブラジルを代表するプロサーファーだ。この後ボカオとは、1980年にオーストラリアのスタビーズコンテストと1982年南アフリカのガンストン500のコンテストで再会した。
この時の様子は「1980年オーストラリア–スタビーズ(80s Australia-Stubbies Surf Classic)」に詳しく書いてある。
この当時のダブ・レディースチーム。ちなみに真ん中のピンクのウエットを着ているのは、大野マーとノリのお母さんです。
この時代にハワイに住んでいた今は亡き俺の仲間、ジェリー浅田。ジェリーの紹介でノースに住むビッグウェーバー、ケンブラットショーを紹介してもらった。
もちろん、地元平塚でもウェットスーツのテストを重ねた。
キャラバンに会社のロゴを大きく目立つ様にして、日本中の波の良い場所で、チームライダーとカメラマンとウエットのテストを兼ねて一緒にサーフィンをしまくった。日本海にて。
大阪から四国徳島に移り住み、サーフボードを作りながらサーフィンを楽しむ。 左から、北村ジロー(ウイリーウイリーサーフボード)、ノブチ君、八尾ヨシノブちゃん(ウイング・クラフトサーフボード)、テリー篠原(TSSC)
この時代の最先端を突っ走ってた。茅ヶ崎のサーフショップ(サンシャイン)のオーナー高橋君
大野薫
渡辺せいちゃん(一番左)その下にいるのがDOVEで働いていたタコボー。
1979年ハレイワ・インターナショナル・コンテストにDOVEのゼッケンを提供した。この大会ではジャッチングの勉強をさせてもらいました。(左からマーク・リチャーズ、リノ・アベリラ、マイケル・ホー、ショーントムソン)
背中に大きく目立つロゴを入れた、通称「でかDOVE」と言われていた。この頃サーフィン雑誌やプロコンテストで、プロサーファーがフィーチャーされはじめた時でDOVEがプロライダーだけに作ったウェットスーツで、多くのサーファー達の憧れとなった。
俺がDOVEを創業した1975年は、まだサーフィン人口は少なく、この業界も趣味の領域だったが、80年代を迎える頃にはサーフィンバブルと言われるほど、サーフィン人口は、膨れ上がり、サーフショプも日本各地に出来て、この5年間は、恐ろしい程のスピードで、サーフィン業界は発展していった。
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