1997年サーフィンワールドの石井さんの仕掛けで、
以来、
小川さんは1969年に鎌倉七里ガ浜にドロップアウト・サーフボードを誕生させて、まだひよ子の様な日本のサーフィン業界を築き上げた人だ。俺は小川さんを見習い6年後にダブ・サーフィングウェットスーツを立ち上げた。ビジネス以上にサーフィン文化の受け入れと整理が必要な時代に小
1980年6月の初め、バリ島でインターナショナルのサーフィンコ
選手たちは、自国のプラカードに並び 、オーストラリア、
バリ島の伝統舞踊を若者たちがビーチで披露。
開会式のセレモニーは、ジャカルタから政府高官や将校など何百人も参加して行われ、クタビーチは人で溢れかえり、異様な盛り上がりを見せていた。
ブラスバンドの演奏が終わる頃、軍用機が現れたりで、国を挙げての規模感を痛感させられる開会式だった。
この頃のバリは、
一年中、島のどこかでビッグウェーブからスモールウェーブまでコンスタントにある波を楽しんでいた。
温暖な気候といつもニコニコ顔のフレンドリーなバリニーズのおか
次の日、大会はウルワツに決まり、役員と選手たちはクタからウルワツまで大移動をした。
これが80年のウルワツ、1、2軒しかないワルンまで行くのに
この山道を重いサーフボードを持って歩くことは、
この時知り合ったバリニーズの何人かは、バリ島で全てのサーフィンビジネスで大
これが80年のウルワツ。
この時のウルワツは、毎日5~6フィートの波がコンスタントにブレイクして
毎日波がある為、コンテストは順調に進んだ。
決勝はテリー・
勝
コンテストのジャッジ風景、左から俺、真ん中がエド小川、そしてオージーのキム・
このオージーが小川さんの知り合いで、バリと日本の架け橋になっていた。
このコンテストの期間中、
すぐに皆んなでワイワイと自分の好きな波を見つけてサーフィン。
今のチャングーから比べたら、おとぎ話みたいな出来事だった。
去年カチョのメキシカン料理屋へ行った時にもこのOM BALIのポスターがあった。
DRIFTERのジェイクのお店にもOMのTシャツが飾られてあった。
このコンテストは、バリ島で今でも伝説となっている。
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